今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

「モノのインターネット」って気持ち悪くないですか???

先日、中国ではIT分野の諸用語に適当な中国語の漢字を当てるということが試みられているため、IT用語が一般の中国人にとって身近なものになり、IT人材の育成が促進されているという趣旨の記事を拝見した。(アルゴリズム→算法のように)

 

 

我が国には、「Internet of Things(IoT)」の訳語に「モノのインターネット」が当てられているという現状がある。

 

 

「モノのインターネット」という言葉では「各種モノをインターネットと繋がった状態にすること」という元来の言葉の意味を正確に表現できていないのではないか

 

「モノのインターネット」というと「モノ」が「インターネット」を所有しているというような変なニュアンスが入り込んでしまうのではないか。

 

 

リンカーンの言葉「人民の、人民のによる、人民のための統治」は典型的な誤訳であるとされている。

 

 

「government of the people, by the people,for the  people」は

 

of以下のpeopleを目的語、

government(govern)を動詞、

by以下のpeopleを主語とする名詞構文であるため、

正確には「人民が、人民のために、人民を統治すること」であるという。

 

 

名詞「Internet」に対応する動詞はないが、

「Internet of things」の場合もリンカーンと似たようなもので、

of以下のthingsを目的語、

Internet(???)を動詞とする名詞構文である

と解釈した方が良いのではないか

 

 

「モノのインターネット」という少し違和感を感じる訳語ではなく、

「モノをインターネットと繋がった状態にすること」という意味に対応する

「モノのインターネット化」の方がより正確にIoTの意味を反映しているように私には思われる

 

 

 

 

 

 

よく新聞に書いてあるようなこと

 

 

昨今、北朝鮮の非核化をめぐって「核なき世界」という用語が喧伝されているが、私には「核なき世界」は既に実現しているように思われる

 

核兵器など存在しない」などとrapt氏のようなことを言いたい訳ではない。アメリカを再び偉大な国にする、と叫び大統領に当選し現在まさに北朝鮮に圧力をかけ続けている張本人たるトランプ氏、彼こそが既に「核なき世界」を実現している

 

就任後、自国を含む包括的な経済連携協定交渉からの脱退を宣言したり、国際的な環境問題に対応する世界的な取り組みの一環である協定からの脱退を宣言したり、挙げ句の果てには「全同盟国との同盟関係を見直す」などと発言し今までアメリカが務めて来た「世界の警察官」としての地位から退く構えを見せるなど、これまで世界が持っていた「アメリカの大統領」というステレオタイプを木っ端微塵にぶち壊した

 

「もはやアメリカをこれまでと同様に信用していてはならない」という底流が世界に広がる中、我が国だけはアメリカに盲従し世界に恥をさらしているが、アメリカを中心とした冷戦後の国際秩序は完全なる変容へと向かっていると見てまず間違いないだろう

 

つまり、世界はアメリカという核を失ったのである。トランプ氏は既に「核なき世界」を実現したのだ。これ以上何を望むというのだろう

 

前任のオバマ氏は就任後すぐプラハで行った「核なき世界」を標榜する演説が高く評価され、ノーベル平和賞を受賞した。しかしながら皮肉なことに、その「核なき世界」は自身の退任という形ですぐに実現されることとなったのだ

 

 

2018年の今日、我々は「核なき世界」に暮らしている

「責任をとる」が分からないのは辞書のせい!

 

昔から「責任をとる」という言葉の意味が分からなかった。日本語が崩壊しているのか日本人が崩壊しているのかは分からないが「責任をとる」と言って自殺じゃなくて「辞職する」人があまりに多いせいで「責任をとる=辞める」観が形成されている感がある。
しかし、「責任をとる」とは本来そういうものではないだろう。「責任をとる」というのは、当の責任問題を発生させている事案なり問題なりの原因なり真相なりを解明し、二度とそのようなことが起こらないようなシステムなり制度なりを構築することではないのか。人間なので誰でも過ちを犯す。しかしながら、過ちを過ちのままにしておくことこそが真の過ちなのであるというのは2000年以上前に孔子が述べた言葉であるが、失敗を身を以て体験している人間が、すぐに辞めてしまっては失敗が継承されないではないか。そうしてまた同じ過ちが繰り返される。これでは到底責任が果たされたとは言えまい。失敗した者には失敗した者の責任というものがある。

 

 

と持論(自論?)を述べるのはここまでにして、本題に入る。
この「責任をとる」という言葉の意味が分かりにくくなっている原因は辞書にあるのではないか。
以下に広辞苑明鏡国語辞典新明解国語辞典から一部抜粋する。
注目すべきは「責任をとる」という例文が引かれている用法が、広辞苑と他2冊とでは異なることである。

広辞苑
①人が引き受けてなすべき任務。「ーを全うする」「ーを持つ」「ーをとる」
②政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。法律上の責任は主として対社会的な刑事責任と主として対個人的な民事責任とに大別され、それぞれ一定の制裁を伴う。

明鏡国語辞典
①まかされていて、しなければならない任務。「ーを果たす」「ーある立場」
②ある行為の結果として負わなくてはならない責めや償い。「不祥事のーをとって辞職する」「ー転嫁」

新明解国語辞典
①自分の分担として、それだけはしなければならない任務(負担)。「ーは あげて相手側にある/ー有る〔=責任の重い〕地位」
②不結果・失敗に基づく損失や制裁(を自分で引き受けること)。「最高ーを負う/ーを取る(持つ・果たす・明らかにする・追及する)/ーの一端がある/ーの一半を背負う/ーが伴う(重い)…」

 

各辞書、微妙なニュアンスの違いこそあれ「責任」を
①任務系
②代償系
の2つの意味に分けることができるだろう。各辞書の「責任をとる」と言う時の「責任」の意味は以下のようになる。

広辞苑…①任務系
明鏡、新明解…②代償系


当ブログ冒頭で述べた「責任をとる」と言う時の「責任」観は、①の任務系のニュアンスに当たる。一方、「責任をとる=辞める」の「責任」観は、②の代償系の方のニュアンスの意味になる。

辞書によって、ここまで「責任をとる」と言う時の「責任」についての解釈が異なるのである。
恐らく「責任をとる」の「責任」の一般的な見方は、①の任務系ニュアンスの意味の方であろうが、企業や霞ヶ関の重役が辞任会見を開く時には②の意味で「責任」を使っているに違いない。

悔しいかな、これが我々が今まで「責任をとる」の「責任」に釈然としなかった理由である。

「責任」が分からなかった責任は「責任」にあったのである。ハハハ(苦笑

地球温暖化について考えたこと

 

主語は迷ったので私たち、にしておくが、私たちが毎日あるいは毎日というスケールでなくても良いがある周期的な間隔で継続して行なっていること(というと何か意識的に行なっている意識の高い活動のように聞こえるが、何でも良い)を、毎日継続して行なっている理由が「昨日までやっていたから(ないしは先週までやっていたから、とか)」になっている状態のことを、マックスウェーバーの言葉を借りて「伝統的支配」と呼ぶことにしてみよう。それでは、(上記のようなこと)の「合理的支配」あるいは「カリスマ的支配」とはどのようなものになるだろうか。「合理的支配」に関しては、日々行なっていることを何か明確な理由・目的をもって行なっている状態、とでも定義することができるであろうが、こと「カリスマ的支配」に関しては定義が思いつかない。今この記事は思いつきで書いているので、思いつかなくて申し訳ない。話をそらすが「おこなっている」と言う時の「おこなっている」は「行なっている」の方がよいのか、「行っている」の方がよいのか。私としては「行う」は「おこな/う」と読ませるのだから後者の方が望ましいのだと思うが同じ漢字を用いる「いっている」との区別をつけるために、文脈で判別できるだろうという意見もあろうが、前者を用いることにする。もう一つ付け加えると、「読点カギカッコ(、「)」もかなり気持ち悪いと思っている。これに関しては一般論が分からないが、読点で区切りを付けたい次の語がカギカッコを要する単語であるとかなり苛立ちが募る。
話を戻して、何が言いたかったのかというと、この支配の3類型というのは3次方程式の解と係数の関係みたいなもので「カリスマ的支配」という3式のうちの1式が欠けている状態で使うのはあまり好ましくないのではないか。ということで(以上のようなこと)を「伝統的支配」と呼ぶのはやめることにする

ああああああああああああああああ

自分でも具体的にどうすればよいのかということについてはあまり具体的なイメージを抱けているというわけではないばかりか、全くどうやればいいのか分からなくて困っているわけだが、社会的な役割関係の中における事務的な会話や、あるいはそうでなくても作業的な会話、友人恋人同士の中身のない肯定のやり取り、あるいはとりとめもなく流れるツイート等々といった会話形式とはまた別に、「対話」のようなものが必要だと漠然と思っている。それが一体どういうものになり得るのかということは、上記のように「〜のようなものではない」というような否定神学でしか語ることができていない。友人達と遊ぶことはとても素晴らしい。しかしながら、友人とカラオケや映画に行くその時々に「対話」のようなものが存在しているか、あるいはこれまで存在していたかということを考えると、少なくとも自分自身に関しては疑いがある。疑いしかない。疑いばかりが存在している。さて、我々は果たして「対話」をすることができるのだろうか。「対話」の実態を把握することなしにそれは不可能だが、しかし具体的な実践なしに具体的な方法、あるいは方法論のようなものを確立することもまた不可能に違いない。言葉遊びっぽいが、少なくとも当座は、対話のようなものが可能になるように対話のようなものを続けるしか道はないのだろう。対話〜!