今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

寶馨氏を支持します【2020京大総長選】

学生には投票権はありませんが、私は勝手に、寶(たから)馨(かおる)氏を支持したいと思います。期末テストや期末レポートに絶賛追われているこの7月中旬なので、詳しく解説や分析の記事を書いたりすることはできませんが、京都大学の一学生が、山極壽一現総長の後任である第27代総長を決める2020年の京大総長選で、寶馨氏を支持したという足跡でも残ればいいかなと思っています。

 

まず、Twitterなんかを見ている限り、現理事である北野正雄氏や湊長博氏は学生には圧倒的に人気がなく、寶馨氏や大嶋正裕氏を支持する声が多く見られます。時任宣博氏と村中孝史氏について言及する声はあまり見受けられませんが、どちらかというと時任宣博氏の方がという消去法的な感じがあります。

 

今回の2020京大総長選については、以下のブログにほとんど全てと言っていい情報がまとまっているので、参考になります。総長選が終わった後にアーカイブが消えないかどうかは心配なので、情報はコピーして全部残しておく必要があるとは感じます。

sites.google.com

拘束力はありませんが、7/17まで学生も投票できる投票を主催されているので、まだ投票していない方は投票してみてはいかがでしょうか。

 

さて、私が寶馨氏を支持する理由という本題に入りたいと思います。私が寶馨氏を支持する理由は以下の3つです。

1「吉田寮生への提訴を取り下げると言明している唯一の候補である」

2「情報公開連絡会を再開すると言明している唯一の候補である」

3「"一律"30単位のCAP制廃止を示唆している」

 

1(「自由の学風にふさわしい京大総長を求める会」の公開質問状、質問2:吉田寮裁判への回答、"大学が学生を告訴しているという状態を一刻も早く解消し、”)

2(吉田寮自治会の公開質問状(1)学生への情報公開についてへの回答、"できるだけ早く情報公開連絡会を再開したい")

3(吉田寮自治会の公開質問状(5)CAP制についてへの回答、"学生全員一律、とする必要はないと考えます。")

 

全体を通して、京都大学が重視してきた価値観である"対話"に非常に重きを置いているなという印象があります。一般に、政治にしても何にしても強権的な手法でやった方が物事は決まりやすい訳で、それで山極壽一体制の時は、いきなり寮生を提訴したりタテカンを撤去したり学生に何の相談もなく一律30単位のCAP制の導入してみたりと、学生は酷い目にあってきました。私は2019年に京大に入学しましたが、その弾圧の光景を嫌というほど見てきました。寶馨氏は、対話を重視するあまり、逆に何も決まらないんじゃないかとこちらがちょっと心配になってしまうほど対話を重視しているように見えますが、むしろそれくらいがちょうどいいのかなと思います。

なお、CAP制については私が過去に書いた記事があるのでご覧ください(宣伝)。

philosophiaichi.hatenadiary.jp

 

以下は、今回の総長選に際して寶馨氏が作成したと思われるWebページですが、京大債の発行など、中々面白いマニフェストが掲げられています。

www.gsais.kyoto-u.ac.jp

 

最後に、今回の2020京大総長選の候補者に対して4団体が行っている公開質問状への回答状況を見てみたいと思います。4団体とは、以下の4団体です。

president-election.hatenablog.com

www.kyodai-union.gr.jp

www.yoshidaryo.org

 こういう公開質問状の文化なんかは、いかにも京大らしくていいと思います。

 

f:id:philosophiaichi:20200715234016p:plain

上表からも分かるように、寶馨氏は4団体全てからの公開質問状に回答しており、選挙権がある教員・職員はもとより、学生との対話をも重視するという姿勢がよく分かります。一方で、例えば北野正雄氏は、投票権を有する職員や教員が多く所属すると思われる京大職員組合を含む4団体全てからの公開質問状に回答しておらず、対話を重視しないという姿勢はもちろん、本当に総長になる気があるのかすら疑問に感じます。湊長博氏と、村中孝史氏に関しては、職員組合からの質問状くらいは回答しておくかという感じでしょうか。

 

学生には投票権はありませんし、誰に投票するか(さらに職員や教員による投票は意向調査に過ぎず、最終的には総長選考会議が決定するので、投票で勝ったからといってその人が総長になるとは限らないというザル制度)は個人の自由ですが、有権者の方々は今後6年間の京都大学のあり方を大きく左右する京大総長選、責任をもって一票を投じて欲しいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

睡眠について

このブログではブログを始めて文章を書き始めた当初から、大した話題が特にある訳でもないのに(旅の日記はいつ書くんですか、いやでもコロナであんまり出歩かれないし)ブログを始めてそれがなんやかんやで2年以上続いているということは、文章を書いているというよりはむしろブログを使って遊んでいると言った方が正しい場合もあるかもしれないが、自分で考えてみてもただただ驚くばかりです。当初から、というよりもむしろ物心ついた時から、と言った方がいいかもしれませんが、私は睡眠問題に多くの場合けっこう悩んできて、でもなんとかなってるのでなんの対策もしてないですが、そのことについて最初の方は書いていた記憶があります。そもそもなんでブログを始めたのかと聞かれても、いま思い返しても忘れてしまっているのでわかりませんね。そんな訳で最近の私の睡眠のことについて少し書こうと思います。

最近の睡眠と言っても、最近では漠然としてますから、大体コロナが流行り始めて、大学が始まってから今までくらいのことを考えてみましょう。コロナ問題が顕在化してきたのは、1月から2月初めくらいだったと思います。このブログでも書いた吉野彰さんの講演会の話で、期末テストを早抜けして祇園四条の橋を渡る時に妙に人が少なく感じられたのは、支那政府が自国民の団体海外旅行を何日か前に禁止したからと考えたということを書いた覚えがあります。2月になると、結局ゴールデンウィークくらいまでは春休みで、ただ家でゴロゴロしていただけだった訳ですが、もはや記憶があまり無くてうろ覚えですが当初は多少ともまともな生活をしていたと思いますが、段々と寝るのが朝に近づいてきて、起きるのが昼に近づいてきた状態だったと思います。2月と3月で2回、東京に住んでいる友人の家に遊びに行った時も、そんな感じで5時くらいまで起きて昼前くらいに起きていたと思います。それで14時からのバイトに遅刻するという事件が起きたのも確か2月のことだったと思います。そんな生活をずっと続けていると、徐々に家の人からの視線が気になってきて、もっとちゃんとした生活をしろということで、ランニングを3月下旬くらいに始めて、5月は月間120kmくらい走りました。ブログを始めた当初は、このランニングのことについても少し書いたような覚えがあります。あの時は、予備校に行く前に朝、毎日走っていたら5月か6月くらいに膝を痛めてそこからはやめた記憶があります。そこで今度は、その教訓を活かすということで、毎日走るのはやめて、二日に1回程度、距離を少し伸ばして走るということにしました。もっとも最近は、梅雨で梅雨と言っても最近の梅雨にしてはちょっと珍しいくらいのほとんど毎日雨が降っているので全然走れていません。そういう訳で、昼間運動してもだからといって夜よく眠れるようになるというわけではありませんでした。5月以降は、大学の授業が始まりましたが、まあ4月もほんのいくつかの授業はやってましたが、通常のように大学に通って授業を受けるというのではなしに、自宅にいながら、パソコンに向かって授業を受けるというスタイルに変わりましたから(コロナのせいでね)1限で6時半とか7時に起きていた昨年度とは違って、1限でも845分に起きさえすれば授業を受けれるということで、大学が始まればちゃんと起きると言っていた私の睡眠態度はまったく改善されませんでした。今までに何回か、1限と2限で、リアルタイムの出席が必要な授業は寝過ごして、受けれていません。そうして大学が始まったわけですが、それくらいから、大学にも行かないし人と会うなという感じでしたから、人との会話を求めて夜からzoomを繋いで課題をやりながら喋ったりする会を不定期的にやるようになって、それをやると私以外の人も結構朝まで起きている人がいて、5時とかに寝てしまうと8時には起きれないので、1限がある水曜日は寝ずに1限を受けて、受け終わってから昼過ぎまで寝るという感じで、それは今も大体そうです。2限がある金曜日もそんなことをやっていると、土曜日は何も無いですから、一回だけ午前からzoomでやると言われたバイトを完全に寝過ごすということがありました。本当に申し訳ないとは思いますが、自分の睡眠を改善するより、そもそもそんな早い時間にバイトをする方が無理なので、それ以降は出来るだけ夕方以降に始まるような時間にしています。友人で17時からのバイトに何回も遅刻してる人がいますが、彼の睡眠も私と似たような感じではないかと思います。逆に、朝7時とか8時とかから始まるバイトは、普段やっているようなそもそも寝ずに朝まで起きておく戦法が使えますから、それでやり過ごしました。こんな生活をやっていると、5月の終わりか6月の初めくらいに一週間くらいだけ、2日に1回だけ12時間とか寝るという生活になってしまって、流石に不味いと思って、それはなんとか直しましたが、朝まで起きるというのは全然改善されずに、最近はずっと昼過ぎまで寝ています。それで変な言い方ですが安定してきたので、もはや家の人にも何も言われなくなっています。こんなところで、睡眠問題というよりは、睡眠問題を中心としたコロナ以降の普段の生活という感じになってしまいましたが、終わっておきたいと思います。

大村愛知県知事のリコールは憲法99条を軸にすべき

(以下敬称略)高須克弥百田尚樹竹田恒泰、有本香、武田邦彦らを中心に、大村秀章愛知県知事をリコールするための署名活動が始まっている。詳細は以下のリンクを参照されたい。

aichi-recall.site

 

上のページの"設立趣旨"にも色々と書かれているが、リコールの主な目的は、2019年のあいちトリエンナーレにおける"表現の不自由展"で、昭和天皇の肖像を燃やしたりするような作品に、公金を支出するという大村愛知県知事の姿勢を問うことだと見てよいだろう。リコールが成功すれば、現行制度下で都道府県知事レベルの罷免が実現する最初の例となり、社会的にも大きな影響が及ぶだろうことは想像に難くない。

 

ja.wikipedia.org

なお、上のWikipediaの"都道府県知事・市町村長の解職"の項によくまとめられているが、署名が一定数以上集まっても、直ちに失職するということではなく、最終的には住民投票にかけられて、そこで罷免の是非が問われることになる。

 

私が問題にしたいのは、リコール運動それ自体というより、リコール運動のアッピールの理由や根拠として、何を使っていくかということである。どうも、運動の主体となっている高須克弥氏の言動などを見ると、押しが弱いのではないかと思われるのである。

例えば、以下のツイートである。

 また、会見にも参加していた竹田恒泰氏のツイートを以下に引用する。

もっともリコールの請求は一定以上の署名数が集まれば実現するから、リコールの署名を訴える根拠は、署名数が十分集まりうるものであればなんでもよい。しかし、純粋に署名数を集める上では、その根拠は、個人によって異なる思想に左右されるものではなく、あくまで中立的な"装い"をしたものである方が望ましいのではないかと思う。

その点で、リコールの根拠を愛国心に訴えかけるものにすることや、あるいは少しは法律的な体裁を整えようということで日本国憲法第一条を持ち出すのは、決して悪いことではない。

 

日本国憲法第一条:

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。日本国憲法

 

しかし、それでは日本国に対する愛国心をあまり持っていない人や(残念なことだが)、あるいは憲法でいくら"日本国民の総意"と書かれているとは言っても、先の大戦での直接的・間接的な経験や、戦後の"自虐史観教育"などの影響、はたまた天皇制の下での立憲君主制以外の望ましい国家像を別に持っているなどの理由で、個人的に天皇によい思いを持っている人だけから日本国民が構成されているわけではないのもまた事実であって、そのような人々に対するアッピールとしては押しが弱い。

そうであるとするならば、署名数を一定数以上集めるというまずリコールの請求に必要な条件をクリアし、後の住民投票で罷免を実現させるためには、愛国心に訴える方法や、憲法1条だけを根拠にするのは、やや不十分ではないかと思うのである。

それでは、一体何をアッピールの根拠として使っていくべきなのだろうか。私は、日本国憲法第99条を使うとよいのではないかと思う。

 

日本国憲法第九十九条:

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。日本国憲法

 

上記の条文中の"その他の公務員"の中には、当然、愛知県知事も含まれるから、大村愛知県知事もまた、日本国憲法を尊重し擁護する義務を負う。その上で、日本国憲法第一条を持ってきて、"日本国の象徴であり日本国民統合の象徴"である天皇を、個人的にどういう考えを持っていようともそれは自由だが、愛知県知事という一応公人である訳だから、そのような振る舞いをするのは適切ではない、という線で論理を詰めれば、たとえ肖像を焼いてそれを踏みつけるくらい昭和天皇のことが嫌いな大村愛知県知事でさえも、納得してリコールの署名に同意するに違いない。

まあ、もっともそのような考えを持っている人が実際にリコールの署名にサインするとはおよそ考えにくいが、現代の日本においては、実際には右傾化が進んでいるのかもしれないが、政治的に無色というか中立であることを、重んじるような気配があるので、あまり積極的に愛国心に燃えているわけではなかったり、昭和天皇のことが好きであるというわけではない人も多いでしょうから、そのような人々にも署名の根を伸ばすという点において、誰もが納得する日本国憲法第99条を軸にした論理で、署名活動のアッピールをしていくのがよいのではないかと、私は思います。

 

ポスト安倍・二階俊博

先ほどワイドショーで、来年2021年9月末で自民党総裁の任期切れとなる現職の安倍晋三内閣総理大臣の後継者、いわゆる"ポスト安倍"として自民党二階俊博幹事長の名前が挙げられていた。しかしながら、二階氏は現在80歳を越すご高齢であり、誠に失礼ながら多忙を極める日本の首相の職を務めるのは難しいのではないかと考えた。(昨年2019年に退位された上皇陛下も当時85歳であった)

そこで、初代内閣総理大臣伊藤博文から現在に至るまで、日本の総理大臣の就任時の年齢と、連続在職日数との間にいかなる関係があるのかを分析し、そのような観点から二階氏を初めとした"ポスト安倍"s(複数形)の首相就任可能性を考察してみたい。

以下、"ポスト安倍"候補たちの年齢は以下のサイトを参照している。年齢の基準は2020年5月1日時点での満年齢ということで、実際に首相に就任する来年とでは誤差があるが、そこは見逃してもらいたい。

home.a07.itscom.net

 

また首相就任時の年齢と連続在職日数の具体的な数値を参照するために用いたのは、文字化けしているが、以下の首相官邸のホームページである。

www.kantei.go.jp

分析の方法は、以下の通りである。

1、就任時の年齢は上記のページに記載の数値をそのまま使用する

1、通算在職日数ではなく、連続在職日数をカウントする。例えば、伊藤博文は何度か総理大臣に就任しているが、1度目は44歳で861日、2度目は50歳で1485日、...というように、別の政権として勘定する。

1、連続して総理大臣を務めている者は、その合計を一連の政権として扱う。またその在職日数は(近衛文麿吉田茂を除き)上記のページの通算在職日数を使用する。例えば、鳩山一郎は71歳で、745日である。

1、近衛文麿吉田茂に関しては、通算在職日数から第一次政権時の在職日数を引いたものを第二次以降の連続在職日数とする。(それぞれの在職日数の数字を足したものをそのまま採用すると、(連続数-1)だけ余分に勘定してしまう)

1、民主党政権終了後の安倍晋三に関しては、まだ最終的な在職日数が確定しないため今回の分析には含めない。

 

それで、以上の方法に従って、首相就任時の年齢と連続在職日数をプロットしたものが以下のグラフである。

f:id:philosophiaichi:20200612140302p:plain

グラフによると、首相就任時の年齢が40歳以下、または80歳以上であった人はいない。よって、39歳の小泉進次郎と81歳の二階俊博の首相就任可能性は極めて低いと言わざるを得ないだろう。これまで無かったことがこれからも無いと断言することは出来ないが、可能性としては極めて低いと考えざるを得ない。

また、首相就任時の年齢が50歳未満、71歳以上で連続在職日数1000日以上の人がいないということも注目できる。この傾向に従うと、79歳の麻生太郎("ポスト安倍"かどうかは微妙だが)、来年には71歳になる70歳の甘利明、安倍路線の継承者として注目されている令和おじさんこと71歳の菅義偉も、長期政権を樹立するのは恐らく難しいだろうと言えるかもしれない。

そこで残ってくるのは、予想通りと言うべきか、50歳〜70歳の人々である。

それでは最後に、"ポスト安倍"として一般的に名前が挙がっている人々の年齢と派閥を列挙して本記事を締めたいと思う。なお、現在の安倍晋三首相の就任時の年齢は58歳で、連続在職日数は2020年6月12日現在で2726日になる。(通算では366+2726=3092日、多分。通算では桂太郎2886日を抜いて最長、連続でも佐藤栄作2798日をもうすぐ抜いて最長)

 

(細田派)

安倍晋三65、下村博文65、西村康稔57、稲田朋美61

(麻生派)

甘利明70、河野太郎57

(竹下派)

茂木敏充64

(二階派)

二階俊博81

(岸田派)

岸田文雄62

(石破派)

石破茂63

(菅グループ)

菅義偉71

(無所属)

小泉進次郎39

 

自作自演な京大の履修制度改革

以前、以下の記事で、京都大学は(学部によっては)156単位という、大学設置基準124単位を大幅に上回る"過剰"な卒業要件の単位数を自ら学生に課しておきながら、6割以上の学生が1回生の内に60以上という単位数を取得していることを"過剰"であると問題視し、2020(令和2)年度からの入学生を対象に半期で30単位(つまり年間で60単位)までしか履修を認めないというCAP制を導入するという、甚だ一貫性を欠いた矛盾した政策決定を行い、学生の負担を増大させているということを指摘し、これを批判しました。

philosophiaichi.hatenadiary.jp

 

今回は、京都大学の各学部の卒業要件の単位数をまとめた上で、さらに入学年度の違いによる卒業要件の単位数の変遷を調べ、"過剰"とされる学生の取得単位数が、制度の変更という形で構造的に作り出されたものであるという可能性について指摘します。

 

まず京都大学の各学部の卒業要件については以下にまとめられています。

www.kyoto-u.ac.jp

ここから、各学部に関して、最終的な卒業要件の単位数を調べたものを以下に示します。

 

総合人間学部:128→140(平成27年度以前 → 28年度以降入学者)

文学部:140→156(上に同じ)

教育学部:140→156(上に同じ)

法学部:128→144→136(平成27年度以前→28から30年度→31年度以降入学者)

経済学部:140(平成30年度以降入学者)

理学部:132→128→140(平成24年度以前→27年度以前→28年度以降入学者)

医学部:医学科は不明、人間健康化学科はコースにより145〜153単位

薬学部:薬科学科は142、薬学科(6年制)は196(2018年度以降入学者)

工学部:144

農学部:132→144(平成27年度以前 → 28年度以降入学者)

 

このようにまとめてみると、大きく見て平成27年度以前と28年度以降の入学者を境に、卒業に必要な単位数が大幅に増加していることがわかります。(本記事公開後に受けた指摘によると、どうやら語学の1コマあたり単位数が1から2に変更されたようです。)

以下のリンク先の2回生進級時アンケート報告書は、平成28年度(つまり平成27年度入学者が対象)以前と、平成29年度(平成28年度入学者が対象)以降の現在とでスタイルが異なり、前者には1回生での取得単位数を問う質問がない(出席コマ数を問う質問はある)ため、単純には比較できませんが、卒業要件が取得単位数を増加させる方向で調整されたことは、1回生での取得単位数を増加させこそすれ、減少させたということはまず考えられないでしょう。

www.z.k.kyoto-u.ac.jp

とするならば、卒業要件に大きく変更が加えられた平成28年度以降入学者の、1回生における取得単位数を見ても、それは多いに決まっているのであって、それを根拠に1回生での履修単位数に厳しい上限を設けるというのは、半ば自作自演的ではないでしょうか。

そもそも、平成28年度以前の2回生進級時アンケート(平成27年度以前の入学者が対象)に、1回生での取得単位数を問う質問がないということそれ自体が、それまでは国際高等教育院も学生の1回生での履修行動、及び取得単位数に特に関心を示さず、問題意識を持っていなかったことの他ならない表れであって、そこにどういう力学が働いて今日のような事態になっているのかは、非常に興味があるところです。

 

最後になりますが、東京大学京都大学のカリキュラムを比較した以下のブログから、東大との比較で京都大学について言及している部分を引用することをもって本記事を締めたいと思います。

daitansen.work

「(京都大学は)一見して単位数が多いことがわかるかと思います。2016年度から教養課程の科目を10単位前後増やしています。結果として卒業に必要な単位数も増えています。京大の自由なイメージからすると取得単位が増えて授業も増えるというのは意外な感じがします。

 

「先ほど京大は単位数を増やしたと書きましたが、これは珍しいことです。卒業単位は124単位以上と決まっていますが、現在は学修の実質化(1単位を取得するために45時間学修すること)が求められており、どの大学も卒業単位数は減らす傾向にあります。東大も同様です。

1単位当たり45時間の学修という原則からすると、1週間45時間学修するとしても124単位だと1年あたり31週間の学修が必要な計算になります。

これが10単位増えるということは1年あたり2~3週間分多く学修することになります。ここまでの負荷を高める必要があると京大は考えたのでしょうか?」

矛盾に満ちた京大の履修制度改革

京都大学では2020(令和2)年度からの入学生を対象に、全学共通科目(いわゆる般教)と各学部の専門科目とを併せて半期で30単位までしか履修を認めないCAP制が導入されました。詳細は、以下の学生意見箱の投稿に対する回答に、京大当局の見解がよくまとめられています。

http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/education-campus/cli/mail/documents/2020/a0483.pdf

f:id:philosophiaichi:20200603015939p:plain

 

CAP制それ自体としては、2019(令和元)年度以前の入学生に対しても存在していましたが、それは上記の回答にもあるように、全学共通科目に限って、しかも半期で34単位まで認めるという比較的緩いものでした。

 

新しく導入されたCAP制の、半期で30単位(つまり年間で60単位)という数字は、京都大学国際高等教育院が公表している報告書にその根拠の片鱗を見出すことができます。

 

2019(令和元)年度 2回生進級時アンケート報告書:

https://www.z.k.kyoto-u.ac.jp/pdf/link/link0900.pdf?1572366982

 

ちなみに、他の各種集計結果が見たい人は以下のリンクを参照してください。

www.z.k.kyoto-u.ac.jp

 

f:id:philosophiaichi:20200603021234p:plain

この報告書の26ページを見ると、グラフの下の2つ目の段落に、60単位以上を1回生のうちに取得している学生の多さを問題視している部分が見られます。また、その下にはダイレクトに、その対策として半期で30単位までのCAP制を導入することに言及しています。つまり、京都大学の見解としては、1回生のうちに60単位以上という単位取得は過剰であり、その過剰な単位数を取得している学生が多いので、制度として60単位までというCAP制を導入することで、学生の過剰な単位取得を防止しようという考えのようです。

 

だが、ちょっと待って欲しい。(某新聞の社説風)

京都大学当局は、60単位以上という多くの1回生の単位取得を"過剰"と評価する前に、自らが学生に課している138〜156単位という卒業要件が目に入らないのでしょうか。(大学設置基準では124単位)

実際に156単位が課されている学部は文学部と教育学部ですが、156という数字は大学設置基準の124と比較して、32も多い数字です。(実際には4回生は院試の勉強や卒業研究に時間を充てるので授業はほとんど取らないでしょうけれど)この32という数字は、4年間、均等に授業を受けた場合の大学設置基準における1年間の授業単位数31(124/4=31)を上回る数字です。

京都大学は、5年制大学なのでしょうか?

これだけの、まさに"過剰"とも言える卒業要件の単位数を自ら学生に課しておきながら、学生に対して君たちは単位を"過剰"に取得しているので取り締まるという姿勢は、甚だ矛盾したものだと思います。それも最初の学生意見箱の回答にあるように、過剰に授業を履修しておいて結局単位を取れない学生がそれほど多いというなら、どうして6割以上もの学生が60単位以上を取得できているのでしょうか。言ってることがおかしくないですか?(履修した単位が全て取得できるとは学生も思っていないし、自分と授業の相性がよくない場合に備えて履修取り消しの制度もありますが、結局試験前に切るか切らないかを判断することも多いです。余裕を持って少し多めに履修することは認められるべきではないでしょうか?)

私は、現行の卒業要件138〜156単位が"過剰"であるから減らせと主張している訳ではありません。京大生はみんな優秀だから(実際には2割の学生が留年しているが←笑い事ではない)大学設置基準より多少、卒業に必要な単位数が増えたとて問題ないでしょうと言うなら、それはそれで構いません。(まあ、なんで多いねんとは思いますけどね)

参考:留年について-カウンセリングルーム(京都大学)

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問題は、京都大学の立場が一貫していないことであって、156単位を卒業要件として課すなら(比較的単位が取りやすい授業が多い)1回生の間に60単位以上を学生が取得することを認めるべきであり、1回生で60単位以上も取得するのはけしからんということであれば、それこそ"学生の負担を減らす"ために、卒業要件の単位数を緩和すべきだということです。この根本的な問題に手を加えることなく、表面上CAP制を導入してみたりして実質的に学生の負担を増すだけの改革(笑)に終始しているので、当の学生から浅慮だと批判されている訳です。

 

多くの理系学部では、京大としては珍しく必修科目である重たい実験を履修しなければなりません。とするならば考えられる最善の履修戦略としては、重たい実験がある3回生で出来るだけ他の科目による負担を減らすために、1・2回生のうちに多くの単位を取得しておこうと考えるのが賢明であり筋ではないでしょうか。1回生で60単位を取得するとして標準的な京大生の履修単位数を考えてみると以下のようになります。

 

標準的な京大生(卒業要件:144単位)

1回生:30単位×2開講期 = 60単位

2回生:20単位×2開講期 = 40単位

3回生:17単位×2開講期 = 34単位

4回生:10単位(卒業研究)

 

1回生で60単位を取得して初めてやっと、2回生から大学設置基準124単位の他の大学並みの忙しさになるのです。実際には、履修した単位が全て取得できるとは限らないから(そのために京大は自ら、肌に合わない授業を取り消すことができる日程を開講期の中頃に設けています)CAP制の上限を60単位に設定することにはやはり問題があります。(何より、既に多くの学生が60単位以上を1回生で取得できることはデータが示しているではないですか)

 

 

今年9月には"ゴリラ"こと山極壽一総長の任期が切れ、新しい総長に変わります。単位の実質化に始まり、立て看板の設置に対する規制と撤去、学生のセーフティネットとして重要な学生寮である吉田寮に住む学生への提訴、半世紀も前に制定され半ば死文と化していたような規定を持ち出しての大学職員による学生の自由な言論活動に対する妨害、これまた大学職員による暴力に対する正当防衛を理由とした学生への停学・退学処分、大学設備を人質に取るような手法でNF(学園祭)に対して日程短縮の圧力をかけた騒動など、学生をはじめとした関係者が長きにわたって築き上げてきた日本に誇る京都大学の文化を、ここ数年京都大学が自ら破壊しようとしているように見えるのは誠に残念です。

 

後編:

自作自演な京大の履修制度改革 - 今後、旅の日記を書くために用意したブログ

に続く