今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

未知の惑星の地政学

地政学とは、地球上の地理的な制約が国家の政治や軍事戦略に与える影響を考察する学問分野のようで、有名なところでは『マッキンダー地政学』を著してハートランド理論を構築したマッキンダーや、『海上権力史論』を著してランドパワーとシーパワーの勢力争いとして現実を分析したマハンなどが知られているようです。これらは現実の地球の地理的環境から着想を得て、また現実の地球上における人類の勢力争いや戦争に大きく影響を受けて構築されている学問ですが、実用上の必要性などは全く無視して単なる好奇心の問題として、海がある全く未知の惑星に人類が降り立った時、降り立つ前にどういう地形的条件があるところや場所に拠点を構えるべきなのかというピクミン的なことを考えてみたりするわけです。その惑星では、一番大きい大陸はどれくらいの大きさなのでしょうか。あるいは日本やイギリスのような島国みたいな地形に拠点を構える方がよいのでしょうか。後で追加で別の人類の集団がやってきた時、まあそんなにすぐに戦争になることはないと思いますが、それでも未来や自分たちの子孫がその惑星で勢力を確保し、繁栄するためには、初期条件というものの存在は無視することはできないと思います。その惑星には、地球が何らかの事情によって居住ができなくなって、あるいは人類が地球に住んでいた時代はとっくに過ぎ去って、宇宙を転々としながら生活している時代に、到達するという話なのかもしれません。そして、そういう新しい惑星における地理条件というのはほとんど無限に可能性が考えられるわけで、また居住している最中に温暖化が進んで海面が上がる縄文海進みたいなことだって起きるかもしれません。そういう色々な可能性が考えられる中で、直面する状況に対処するためにはやはり何か統一的な原則が必要になるのだと思います。地球で発達している地政学も案外そのまま役に立つのかもしれません。何が言いたいのかというと、別にそういう研究が今すぐ必要とかそういうことを言っているのではなくて(もしそうだとしたら、それは実用的な研究になってしまいます)そういうことを考えてみることはちょっと面白いのではないかということを思ったりしているというわけです。

 

前期取っていた授業の最後の方で教授が『IT全史 情報技術の250年を読む』(中野明、祥伝社、2017)という本を紹介していたので、読んでみました。内容は、産業革命前後から近未来までの情報通信技術の歴史的推移というか経過をまとめたもので、中々面白いと思いました。その中で、イギリスが植民地をたくさん持ち、電信網を地球中に張り巡らせることでイギリスはいち早く世界の情報を入手し、電信がイギリスの世界覇権に一役買っていたという話がありました。そこでは情報の伝達速度が問題になるわけです。現代でも衛星通信であるとか海底ケーブルを使って超高速での通信が可能となっていますが、これは根本的には地球の大きさに対して光の速さが速すぎるという事実によって支えられている部分が結構あるのではないかと思うわけです。何が言いたいのかというと、もし未来的に十分考えられることですが、人類が地球外に勢力範囲を拡大して火星とか冥王星とかで活動するようになった時には、この通信速度の問題がまず間違いなく立ちはだかってくると思います。なぜなら光より速いものはなく、通信速度というのは光の速さという上限に決定的に規定されるからです。そうすると、宇宙の活動において大航海時代の後のパクス・ブリタニカの時代のようにある一つの勢力だけが覇権を獲得するということは、情報の面から見て優位に立つことは難しくなるのかもしれません。まあ、そうではないという可能性はいくらでも考えられますが。あと、そういう宇宙時代において生じるのではないかと思うもう一つの懸念があって、もうこういうことは誰かがとっくに問題にしていてもう解決しているのかもしれませんが、宇宙規模の活動においては相対論的に基準時間的なものが設定できないのではないかということです。ウラシマ効果と言われればそれまでかもしれないですが、あれは行って帰ってくるということですが、同時刻の判定ができなくなる、または先着順みたいな状況で別に地球じゃなくてもいいですが、地球に近い惑星の人ほど有利みたいな、あるいは遠隔地で起きた犯罪のために上手いこと時間の前後を誤魔化してアリバイが立証できないとか立証できるとか、そういうことが可能なのか分かりませんが、宇宙時代のための法律体系みたいなものも必要なのかもしれません。でもこれは法律の知識だけでなくて理系の相対論や宇宙論の知識も必要になってきますから、中々難しいのかもしれません。そしてこれについても、今すぐ誰かがやらないととかいうことではなく(実用的になってしまいます)そういうことを考えることがちょっと楽しいという感じであるということを断っておきたいと思います。

 

木曜から後期が始まりまして、なんとか宿題を残さずに3連休に突入しました。課題即日処理の原則とでも名付けましょうか。守られる気がしませんね。年内100冊を目標に本は読んでいきたいと思います。割とこう本を読んでる人が珍しいのか、どうやったら本読めるのみたいな話で話題ができるのでそういう目的で読んでたわけではないですが、そういう目的で読んでも面白いなと思うようになりました。1年くらいやっていたバイトはいま週0回にして、新しく始めたバイトが割と楽しく楽なので嬉しいです。今回はこの辺にしときます。

今年もあと約100日

1月11日に今年は100冊読むということを目標として決め、今年もあと約100日になろうかなったかという所で72冊を読了しており、100冊が現実的な視界に入っている。子どもの頃から本をたくさん読むのはいいことだと聞かされてきたにも関わらず、我々の多くは本を、例えば1年100冊ペースで、読んでいるとは言い難い。本をたくさん読むためには何が必要なのだろうか。考えていきたい。

まず1つ目は、本を見つけることだ。本をたくさん読むためには、それ以上に本をたくさん見つけなければならない。読み始めたけどあんまり面白くなかったから読むのをやめるというのは正しい判断だと思う。苦痛に耐えながらする読書は長続きしない。持続可能ではないし、また今後いつかその本が楽しく読めるようになるまで置いておくという判断でもある。次のような不等式が存在する。(読むことができる冊数)≦(見つけた本の数)。たくさんの本を読むためには、当たり前だがたくさんの本を見つける必要がある。それも面白く、持続的に読むことができ、読むことが苦痛にならない本を、大量にだ。そのためには、仕組みとして大量の本が視界に入る状況を作らなければならない。出版社のTwitterをフォローするとか、好きな作家の新刊情報を定期的にチェックするとか、面白かった本の著者の過去の出版物に目を通すとか、定期的に書店や図書館に行くとか、あるいは図書館に入る新刊をチェックするとか。とにかく質より量で大量の本の情報を入手する必要がある。実際に読むかどうかはまたそこから先の話だ。インターネットは強力なツールになると思う。だから、自由にインターネットが使えない幼少期や児童期に、たくさんの本を読めと迫るのは酷だと思う。

2つ目は、本を手元に置くことだ。手で持つことができる本にしても電子書籍にしても、手元に本がないと始まらない。その本を読むかどうかは、手元に本がある状態になって初めて決めることができる。だからタダで何回でも本を借りることができ、読もうと思った本なら大体どんな本でも所蔵されている図書館へのアクセスが確保されているかどうかは、決定的だと思う。地域の小さな図書館や学校の図書室ではどんな本でもという訳にはいかないし、また新刊の導入スピードも速くないので不十分であって、どでかい大学図書館がいいと思う。幼少期や児童期には一般的には大学図書館を使用することはできないし、また本の難しさの問題もあるので、この点でもたくさんの本を読めと迫るのは酷ではないか。

3つ目は、自力で本を購入できる収入を確保することだ。親の許可が必要だと、親の顔色を伺う必要があって、読みたい本もまともに読むことができない。また、図書館だけでは不十分で、本を読むためには大きな書店やAmazonを利用することも不可欠だ。さらに言えば、自分の所得の責任の中で購入した本は、別に読まなくてもよい。幼少期や児童期に親に買ってもらった本はスポンサーからの圧力がかかるので読まなければならないという意識が生じる。そうした意識が生じず、面白くなければ読むのをやめることができ、積読として手元にある読むことができる本の冊数を増やすことは、大量の本を読むのに寄与する。

こうした、インターネットを利用した情報の検索や大量の本へのアクセス、大きな図書館や書店の存在、また自力で読みたい本を好きなだけ確保できる条件なくして、本を大量に読むことはできないと思う。限られた本のリストの中から、そのリストの中にある本のうち読んだ本の比率を上げるという手法では、本を読む活動は長続きしない。以上、大体このようなことが半年以上できるだけ本を読もうと努めて個人的に分かってきたことである。考えは今後変わるかもしれないし、人によっても向き不向きがあるかもしれないが、人に本を読むことを勧める立場にある人は本をたくさん読んでいるべきだと思う。最後に、本をたくさん読むために必要な最も大事なことをお伝えしよう。それは、あなたがいま手に持っているスマートフォンの代わりに本を持つことだ。あなたが何処かへ出掛けるとき、カバンのポケットに本を1冊忍び込ませることからまず始めてみてはどうだろうか。

伊吹山、日帰り山行 大阪から

9月某日、滋賀県伊吹山に大阪から日帰りで行ってきたので、そのことを書きます。

快速で米原駅に7時39分着。車中は座れました。京都〜草津間が一番混んでいた印象。駅でトイレを済ませコンビニでおにぎりを2つ買いました。

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7時44分、米原駅改札内電光掲示板の様子

8時03分発の電車で近江長岡駅を目指します。米原から2駅です。

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8時13分、近江長岡駅ホームにて

近江長岡駅JR東海の管轄なので、JR西日本の駅からPiTaPaなどで入ると出れません。私も駅員の人に精算してもらいましたが...

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8時19分、駅から望む伊吹山

改札の外にトイレがあります。駅舎内にはベンチと自販機があります。バスは写真と反対方向、駅舎から出て左に曲がり徒歩10秒です。

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8時39分、伊吹登山口いきバス

バスは8時45分発です。発車する前に、運転席横の料金投入口で両替が出来るので、そこで370円ぴったり用意しておくと降りる時にスムーズです。乗車券を取って後ろのドアから乗り込みます。座れました。バスは20人ほど乗っていた印象。みんな登山格好です。9時01分に伊吹登山口(終点)に着きましたが、その1つ手前のバス停(伊吹小学校前)で前の方に立っていた3人ほどが降りていきました。玄人感。

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9時07分、バス停横トイレ前にて

バス停降りて階段を上がるとトイレがあります。登山口を示す表示があるので入り口は迷わないと思います。帰る時に気づきましたが、ここは神社の境内のようです。登山口で入山料300円と、登山届け(簡易)を箱に入れて、登山開始です。

登山口の標高は210mで、約200m(高さ方向)グネグネと曲がる森の中を進むと1合目(415m)です。

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9時45分、1合目のトイレ前から

写真中央左の屋根の下で10分弱休憩し、そこから少し上がるとトイレがあります。トイレは、登山口、1合目、3合目、山頂にあります。結構整備されている方だと思います。冬はスキー場になるそうです。

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9時48分、1合目と2合目の間で

米原市のホームページによると、メハジキだと思います。

www.city.maibara.lg.jp

9時58分に2合目(580m)に着きました。10分ほど休憩しました。木陰とベンチがあります。

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10時00分、2合目から望む

琵琶湖が見えます。この日はよく晴れていました。1合目から2合目は日陰なしです。

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10時13分、滑空している人を目撃

2合目から3合目は、最初はやや日陰ですが、日陰がない部分も多いです。長袖を肘までまくっていたので、次の日も日焼けが少し痛みました。なんとも健康的な健康被害です。

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10時35分、三合目(720m)到着

写真左奥に見える建物はトイレです。休憩用の屋根のついた建物も別にあり、壁に植物の写真が貼ってありました。また、どこかにここから先は山頂までトイレがない旨が書いてありました。

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15時34分、帰りに撮影

3合目の直前には柵で囲われて自由に入れる植物園(大袈裟な表現)みたいなのがありました。入りませんでしたが...

4合目まではほとんど平地です。4合目の表示から先は、やや木に覆われて日陰があります。

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11時09分、5合目着

5合目です。自販機があります。自販機の影は日陰なので休憩ができます。また、コロナが無ければ営業していたかもしれない店がありました。何の店かは分かりませんが...

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11時30分、小屋

5合目からも見えていた小屋に着きました。緊急避難小屋かと思います。5.5合目くらいの場所にあります。日陰なので休憩できます。このあたりから、同伴者が寝不足で足を攣って歩行速度遅めになりましたが、山頂の稜線には予定通り登山開始から4時間で着けました。

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11時40分、6合目(990m)

ひたすら日陰のない石がゴロゴロした道を右へ左へと登っていきます。石が多いのは帰りのほうが意識させられました。暑かったですが、風は吹いており秋の陽気です。絶景なのが救いです。

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12時21分、下界を望む

写真では伝わらないかもしれませんが、絶景です。

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13時01分、本日のベストショット

13時に稜線につきました。登り始めが9時なので、地図タイム通りです。みんな健康なら無理なくこれより速く登れると思います。また、この日は平日でしたが、学生から社会人からaged personの方まで人口はとても多いように感じました。そんな話を稜線で休憩している人としました。

13時10分に登頂です。1377m、伊吹山地の最高峰です。

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13時16分、山頂にて

山頂の近くまで車で来れるらしく、人は多いです。

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13時17分、様々な店が立ち並ぶ

2合目付近で既に下山してきているグループがあったので、山頂で宿泊が恐らく出来るようです。私も山頂でソフトクリームを頂きました。(500円、ソフトクリームを買っているのか山頂でソフトクリームを食べるという経験を買っているのか...) 

ベンチと机があるのでそこで調理ができます。食事を摂りながら、麓に住んでいるというaged personの女性2人と、同じく大阪から来たという玉ねぎをまな板で切っていたらしい社会人風の男性の方と会話を楽しみました。

トイレを済ませ、14時15分ごろに下山開始です。

元来た道を戻るだけで特に新しい要素はないので、割愛します。

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16時31分、登山口に無事帰還

 16時49分に、伊吹登山口バス停からのバスに乗り帰宅の途につきます。

途中、我々よりも先に下山していた人が、ジョイ伊吹というところで着替えて乗車してきたので、シャワーなどが利用できるのかもしれません。今後の研究としたいと思います。

電車が3分遅れていたおかげで近江長浜駅でちょうど乗ることができ、30分早く帰ることができました。交通費が若干高いのはネックですが、それ以外は非常に満足感の高い山でした。大阪からも十分日帰りで山行ができる山だと思います。(装備や計画をしっかりしなくても良いということではない)

今回は、登山をあまりしない人によく聞かれる質問「登山中は何を考えているのか?」について意識しながら山行しました。結果としては、次に足を置く場所のこと(特に下山時)や計画との時間のペース配分の誤差(特に先頭を歩く人)その結果としての休憩の時間や間隔(特にリーダー)、次に来るときはこうしようなどの未来や仮定のことを考えていることが分かりました。

今回の報告はこの辺にしときます。

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ベストショット(加工済み)

 

睡眠 宗教体験

自分の力、意思によるのではない無意識の作用によって眠りに落ち、また大いに自分が関係しているとはいえ自分の意思によるものではないと感じられる夢というのを見る睡眠という現象 毎日人間について回るこの現象は、宗教体験の感がある 

おやすみなさい

一億人強迫観念と消費税

今日は一億人という強迫観念と消費税について考えてみたいと思います。

一億人というのは日本の人口問題について語られる時によく登場する言葉です。また一億総〇〇というように何か日本社会全体を指して政策であったり状態であったりを表すのに使われることもあります。世は少子高齢化、人口減少が叫ばれて久しいですが、ここで諦めと言われればそうかもしれませんが、あえて悲観的でない楽観的な風にこの現象を考えてみます。どうにも1億人(現在は1億2000万人ですか、僕が幼い頃は1億3000万人と言っていたのが、ある時を境に1億2000万人と言うようになった気がします)という人口を維持できなければ、これから日本は経済発展できない、没落した国になるという一種の強迫観念のようなものが議論全体にある気がします。江戸時代は3000万人でしたし、終戦の1945年は7000万人でした。当時の世界全体の人口(1950年で25億人)に対する比率が大きかっただけという指摘もあるかもしれませんが、英米と一戦を交えた先進国でした。2020年現在ではざっくりドイツ8000万人、イギリスとフランスが6500万人です。アメリカ3億人や中国インドの10億人超のイメージがあるので1億人でも少ないと無意識に思っている節がありますが、多いです。インドや中国のように人口が多いと市場規模も大きいので経済発展に適していると一見思いますが全員が先進国のような購買力を持ってはいないということにも注意する必要があるでしょう。適正人口という考え方があって、日本の場合どのくらいが適正人口なのかは一概には言えませんが、自国で養える5000万人と貿易で+3000万人支えるくらいがちょうどいいのではないかと誰かが言っています。人口が増えすぎると東京一極集中のように人が住みにくくなって生活環境がよくなくなるので人口が減るそうです。とすれば、これから人口がどんどん減っていき1億人を切るかもしれませんし、市場が縮小してGDPも減るかもしれません。ですが、何の根拠もないですが8000万人くらいまで減った段階で昔(将来から見た現在のこと)よりは日本が住みやすくなって出生率が2近くにまで戻り、それで人口がそれくらいで維持されるかもしれません。少なくとも、数百年後に日本から人がいなくなるということは可能性としてはだいぶ低いのではないかと思います。つまり、これはかなり楽観的な見方ですが、移民なんか入れなくても(既に技能実習生として入っているという議論もありますが)時間が少子高齢化、人口減少、東京一極集中といった現在問題とされている問題を、問題が問題でなくなるという形で解決するかもしれないということを僕は最近考えています。もちろん、これは楽観的な見方であって各論として人口減少と少子高齢の人口構造がもたらすだろう様々な問題に対処することは考えなくてはいけません。日本人は割と楽観的かもしれませんが、日本人は悲観的というイメージもあるので、あえて楽観的に考えてみるのも少なくとも個人レベルではアリなのかなとも思います。また、社会保障費の増大に伴って発生している財政健全化問題も、もしそれを本気で解消しようと思うならの話ですが、将来的に人口が8000万人程度にまで減って出生率が再び上がり始めた段階で(数十年後か100年後くらい?)解決するのではないかと思います。超長期的スパンでですがね。

消費税についてですが、これはかなり平等な税金だと思います。僕が不勉強なだけで今後また考えが変わるかもしれませんが、低所得者ほど収入に占める生活費の割合が大きいので、弱者に優しくない逆進性があると言われます。しかし、高所得者だって生活費以外にお金を使わないのかと言えばそうではないだろうし、例えば1億円のヨットを買う人がいれば10%なら1000万円の消費税がかかります。不況の時に弱者にとって見える形で税負担が大きいというのは、不況の時だけ下げれば解決しそうな気がします。でもここまでの議論で僕の不勉強のせいで破綻していそうな箇所が何箇所もありそうなので、怖いのでもうやめておこうと思います。適当に書いてる文章だから許されると思いますが、あまり専門外(そもそもまだ何者でもない)というかよく知らないことについて書くのは危険な感じがしますね。

大阪都構想ひとりごと

あと2ヶ月も経てば大阪都構想住民投票の結果は出ていることと思います。物心ついた頃には維新の会が政治をやっていたような気がするし、二重行政時代の大阪府市下で有権者として生活したことがないので、二重行政の重みというか、その存在をリアルに体感してはいないので、実感としてはよく分かりません。しかし、ずっと大阪では二重行政というものが特に顕著に行われていてその解消を望んでいる人々の問題意識があるということは理解できます。そこで、前回、今回と維新が出しているいわゆる都構想のパッケージですが、理念としては理解できます。大阪府大阪市がそれぞれ独自に広域行政をやっていたら無駄が大きいので、大阪市の方の広域行政権限と予算を府に移管して、身近な住民サービスを提供するために大阪市をいくつかの自治体に分割する。理念としては、理解できますし、今は大阪府知事大阪市長が同じような政治的考えを持っているので特に摩擦なく政治が行われているという、いわゆるバーチャル都構想状態であるということも理解できます。そして、未来永劫このような状態が続く訳ではなく、今後また異なる政治的グループがそれぞれトップに立てば元通りになってしまう可能性があるということも理解できます。僕は少し問題があるのではないかと思うのは、2本柱(二重行政の解消、身近な住民サービスの実現)のうちの後者、身近な住民サービスの実現という方の具体的な制度設計のことです。あまり詳しくは知りませんが、報道や記事を見ている感じだと、問題があるような気がします。というのは、大阪市が廃止され4つの特別区が設置された場合には、基本的には4つの特別区が行政事務を行うが、かなり膨大な量の事務をどうやら旧大阪市の区域を担当する一部事務組合というものが行うことになっているらしいからです。これは、4つに分けると効率化されて身近な住民サービスが実現されるという思想とやや相容れない部分があると思います。一部事務組合というものを新たに作って、それが旧大阪市の区域に相当する部分の結構な量の事務を行うというなら、それは旧大阪市の規模で行政事務を行なった方が効率的であるということの何よりの証左だからです。少なくとも僕は現段階ではそう感じています。今後、考えが変わるかもしれませんが。この点(身近な住民サービスの実現)に関しても、理念自体はよく理解できます。ただ、その理念を実現するための具体的な制度案がいささかあまり詰められていない、完全なものあるいは少なくともベターなものではないと感じてしまいます。これは僕が不勉強だからそう感じてしまうのかもしれませんが、その場合でも僕のような人間を減らすために維新の会は何か説明をした方がいいと思います。そこで、以上のような僕の考えを要約すると大体こんな感じかと思います。大阪市の広域行政権限と予算を府に移管していわゆる二重行政を解消するための制度構築には賛成、またより身近な住民サービスを実現するために何らかの制度的変更を考えることには賛成だが、現状住民投票にかけられてもしそれが通った時に実現されるような一部事務組合が大幅に絡むような制度にはやや疑問を持っており、大阪市を一度廃止するとそれを元に戻す方法はどこにも規定が無いらしいので、総合的には反対でもう少し考えて欲しいという感じです。維新は住民サービスは下がらないと言っていますし、公明党も住民サービスが下がらないという約束を維新から取り付けた上で賛成しているらしいので、まあ実際には大阪の選挙区で維新を敵に回すと怖いからという実際的な事情もありそうですが、住民サービスは下がらないのかもしれませんが、最近ポツポツと都構想の制度設計は住民サービスを削って何億円浮かすだとかいうことを前提に書かれているという報道や記事も何個か見ていますので、判断は難しいと思っています。

慶應義塾大学の坂井豊貴先生が、著書『「決め方」の経済学』で書いていたことから少し着想を得て喋ります。現時点で僕のような考えを持っている人がいる場合は、2本柱がパッケージされている投票ではなく、それぞれに賛成・反対の意思表示ができた方がより正確に意思表示ができます。例えば、広域行政権限の移管による二重行政の解消には賛成、大阪市廃止とそれに伴う特別区設置には反対、といった風に。いま本が手元に無いので記憶を辿って書きますが、確か先生は2015年の大阪都構想を分析した上で、そのような投票の方法について考察していたような気がします。2つとも賛成でないと賛成に投票しにくいよりは、片方でも賛成ならそれに関しては賛成票を投じることができた方が、より建設的です。与党や野党(でも維新は国会ではユ党と呼ばれていますが)に関わらず大阪市大阪府の政治家の人はあまり頭が良くないかもしれませんが、政策の中身のことだけではなくて、このような決め方のことにも少しは脳のリソースを割いて欲しいなと思います。まあこれにも政治的な思惑が絡むので難しいのかもしれませんね。