無意味に思えるmumbo-jumbo

この文章の結論は本ページ最下部に掲示してありますので、本文の大部分を読み飛ばして頂いたてもお楽しみ頂けます

 

※本文は失敗しました。安っぽい科学論的な文体を揶揄する感じで書こうとしたら本当に安っぽい文章になってしまいました!

 

あなたはくだものを食べたことがありますか?と聞かれたら、何をバカなことを、というのが通常の反応でしょう。くだものなんか誰もが日常的に食べているではないか、と。恐らく、皆さんは今までの人生において何らかのくだものを食べる機会を持ったことがあることとは思います。しかしながら、あなたが食べたとするその「くだものであるとあなたが思っているもの」は本当に「くだもの」だったのでしょうか?
言い換えれば、あなたは本当に「くだもの」を食べたと言えるのか。あなたが食べたのは本当に「くだもの」だったのか?等々、矢継ぎ早に質問を受けると「くだもの」に対するゲシュタルト崩壊と押し売り詐欺を受けている時のような心理状態とによって、あなたはあなたの食べた「くだもの」に対する懐疑を、全面的にということはないにせよ、少なくとも少しは持ち始めているはずです。アダムとイブの神話から、ニュートンの重力発見、現在時価総額世界一の企業の名前に至るまで、人類は歴史的に「くだもの」と深く関わってきました。人々にとって「くだもの」は、ごく身近なものであった、または現在もそうであるわけです。ですが、むしろごく身近なものであった、またはそうであるがゆえに、私たちは「くだものとは何か」というその核心となる根源の部分については深く知ろうとしてこなかった、そういう面があるのかもしれません。普段身近によく知っていると思っていることを普段とは異なる見方から多面的に捉え直し、物事の新たな一面を探求するというのは、とても重要な知的活動の一つです。「くだもの」とは何かということについての認識なしに「くだもの」を食べたか否かということの判断はできません。あなたが「くだもの」を食べたかどうかを知るために「くだもの」とは何か、その定義を確認しておく必要があるでしょう。手元の電子辞書で「くだもの」と検索すると「草木の果実で食用になるもの」と出てきました。とすると、あなたが本当に「くだもの」を食べたのかどうなのかという問題は、あなたが「草木の果実で食用になるもの」を食べたのかどうなのかという問題に置き換わります。ですが置き換えたはいいものの、これでは当初より事の本質がどこか捉えどころのないものになってしまった感が否めません。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょうか。すなわち、あなたは確かに「くだもの」を食べた。それは確かです。しかしながら、あなたが食べた「くだもの」は、その実、個別具体的な「りんご」であったり「みかん」であったりしたのではないでしょうか。つまりあなたは決して「くだもの」を口にしたわけではなく、「りんご」や「みかん」を口にしたに過ぎないということです。あなたが食べたのは具体的な食物である「ぶどう」であったり「ドラゴンフルーツ」であったりした、この認識は非常に重要です。つまり、あなたが「くだもの」を食べることは不可能であるということです。

 


君は決して、くだものを食べることはできない!

 


このように考えてくると私たちは、一見身近に思える「くだもの」と私たちの間に、決して超えることのできない間隙を目撃したということになるのではないでしょうか。つまり、我々は「くだもの」を食べることはできません。我々が食べることができるのは、個々の「りんご」であったり「みかん」であったり、ということです。あなたは「くだもの」を決して食べることはできません。ですが、これはあなただけではなく私たち人類がその特質上、逃れることができない宿命なのです。

 さて、それでは我々が「くだもの」を食べることができる日は到来するのでしょうか。到来するとすればそれはいつなのか、そんなことをふと考えて思索の中で時を過ごしてみるのもたまにはよいかもしれませんねフフッ

 

 

文責:食後にいちごを食べながら フィロソフィア愛知

 

 

 

結論:「くだもの」は個々の「りんご」などの抽象に過ぎないので食べることはできない