帰納法、場合分け。あるいは責任問題

まず、自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことについて自分が苦しむ、あるいはしんどくなるということはふつうに了解されることであると思う。そして逆に、自分が苦しんでいる、あるいはしんどくなっているということについて、その原因は自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことにあると考えることも、自然に導かれることであると思う。そこで、その自分が苦しんでいる、あるいはしんどくなっている原因たる、自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことを追跡して思い浮かべてみる。思い浮かぶときはよい。問題は思い浮かばない時である。そこで、この自分が苦しんでいる、あるいはしんどくなっている原因である自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことを記憶を遡って追跡しても思い浮かばないという時に考えられる状況を二つに分けて考えてみることにする。まず一つ目というのは、思い浮かばないのは本当に自分が悪いこと、あるいは原因たる少なくとも良くはないことをしていないということである。ことなのであるが、この方針では自分が苦しんでいるということを説明できない。原因は他者にある___あるいは少なくとも自らの外部にある、と考えることも可能ではあるが、苦しんでいるのは当の自分なのであり、この'原因の外部化'は自分が苦しんでいる、あるいは少なくともしんどくなっていることについての根本の原因を説明するものではない。というわけでまず一つ目の場合は行き止まりである。次に二つ目の場合というのは、自分が苦しんでいる、あるいは少なくとも苦しくなっている原因を自分の過去に遡って追跡してみても発見できない場合、それは実は自分の意識外、自分の責任範囲を超えた領域でなされた悪事のせいで自分が苦しんでいるのであると解釈することである。自分が苦しんでいる、あるいは少なくともしんどくなっていることの原因は、自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことにあると考える、というまず広く了解されうるであろう立場に今立っているので、この解釈は妥当である。妥当ではあるのだが、それでもしかし、自分がおこなったとはいえ自らの意志の範囲外でなされたことについて自分が責任を負うということは少し受け入れがたいようにも思われるのである。ここで二つ目の立場も行き止まりとなった。なったが、いま自らが苦しんでいる、あるいは少なくともしんどくなっている現実と天秤にかけてこの行き止まった二つの立場を推し進めることもまた可能ではあるかもしれない。そもそもこの二つの見方だけでこの問題に関して場合が全て網羅されているのかという疑問は依然としてある。しかし、もしこの二つだけで全てが覆われているとするのであれば、それは背理的に言って当初に宣言した一般に広く了解されうるであろう説明を否定することにもなる。何が成り立ち、何が成り立たないのか、矛盾した自らの理解では何も説明することができない