今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

客観と印象 文章を読む主義

僕は予備校に通っていた時、中野芳樹という人から客観的に文章を読む方法を教わった。"ヨシキ"の方法は、限られた試験時間内で筆者の主張の要点を掴み記述式の解答を作成するのにかなり優れた方法だった。文章中の具体例からその前後にあるはずの主張部分を推定したり、"と思う""と考える"といった筆者の主観を含む表現、"こそ""重要"といった文中の修辞表現などに着目して、文章を読みながら後で記述解答を作成するために必要な本文中の情報をマーキングすることができた。この方法は、ごく短い試験時間内に与えられた文章を読んで解答を作成するという、一般的な読書の状況とはかけ離れたいわば"異常"な状況で威力を発揮するものだ。

一般的な読書状況の時は、こんな読み方をする人はいないと思う。何か特殊な要請がある場合は別にして、新書を読むのに鉛筆片手に主張部分に線を引くという読み方は異常である(と思う)。他の人が趣味の読書といった一般的な読書状況の時にどんな風に文章を読んでいるかということは、調査したことがないので分からないが、もっとマクロに全体として文章の繋がり、章、一冊を読むものだと思う。予備校式の客観的読解法は試験時間中に与えられる文章の絶対量そのものが少ないために、修辞に着目したり線を引いたりという作業が可能であり、そのようなミクロの読みが成立する。

しかし、そういう風にしてミクロの読みをやっていると、一般的な読書状況の時に得られるような文章全体としての印象が得られなくなってくる。それは試験時間内に読む短い文章においても発生する現象である。読解という脳の活動よりも、表現に注目したり線を引いたりという作業に意識が集中してしまうためではないかと思う。ある程度、客観的な読みと"印象"的な読みとの折り合いをつけ、それを両立することが、少なくとも試験対策としては必要だった。

そのようにして得られる読み方は、一般的な読書状況でも結構有効なものではないかと思う。実際に本に線を引くのではなくても頭の中で、ここは筆者の主張に関わる重要なもの、ここは興味深いけれど具体例や引用なのでそれほど真剣に読まなくてもスピードを上げて読むことができる、などと割り切って文章の読解にメリハリをつけることができる。なおかつベースは一般的な読書状況の時の"印象"的の読み方なので、ミクロになり過ぎず文章全体としての印象もちゃんと入ってくる。このミクロとマクロのバランスを常に色々と修正しながら文章を読んでいるのが、今の状況という感じがする。しかし、やや"印象"に偏っているきらいはある。

なぜこんなことをやっているかというと、僕自身いま"1年間で100冊の本を読む"と決めてそれに従って色々の本に手を出すという、あまり一般的ではない"異常"な読書状況にあるからである。1年間で100冊読むためには月に約89冊、34日に1冊のペースで本を読む必要がある。一概に""と言っても薄いものから分厚いものまで千差万別であり、小説なら読みやすいが文語的な文体で昔の人間が書いた専門的な本や翻訳の本は読みにくいといった難易の差もあるので、1冊の本を読むのにどれくらい時間がかかるかというのは本によるとしか言いようがない。しかし、ずっと本を読んでいては生活が出来ないので、ある程度のスピードで本を読む必要がある。そこで、必要としてこのような読み方を少なくとも理想としては、する必要があると思う。もちろん、"100"という目標達成のために、文章中のよく分からない部分をあまり深く考えなかったり、どちらかといえば短時間で読めそうな本を選びがちになったり、読んでいて集中が続かないと思ったらすぐ別の本に移ったりという、"弊害"が色々と発生している。たぶん来年は生活が徐々に忙しくなるだろうということも勘案すると、本を読む活動自体はそれなりに継続するが、"100"というのはやめて"量より質"の読書活動にシフトしていくのではないかと思っている。そのためにも今はまず""を追求する方向で、色々と述べた文章の読み方の問題についても自分なりに考えていきたいと思っている。

最後に、いわゆる"速読"の問題についての僕の考えを書いておきたいと思う。人口に膾炙している"1日で数十冊の本が読める"というような速読法の存在に対しては、僕は懐疑的である。恐らくはかなり簡単な本であればこそ、そのようなことが可能なのであって、僕が読んだことがある本を例として出すと、例えば柳田國男の『海上の道』や吉本隆明の『共同幻想論』というようなかなり難解な本に対して、同様なことが可能とは到底思えない。たとえ出来たとしても、それはただ読んだというだけであって、何かを理解している訳ではないと思う。これはかなり僕の独断が入っていると思うが、このことは僕が普通に時間をかけて読んでも、その内容をあまり理解できなかったことに対する一種の自戒のようなものであるということを表明しておいて、恥を晒さないうちに文章を締めておきたいと思う。