今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

巨勢徳太と伊藤博文

いま梅原猛の『隠された十字架』を読んでいてふと思い浮かんだことがあったので、それの備忘録である。

筆者によると、巨勢徳太という人物は、山背大兄皇子(聖徳太子の息子)殺害の現地部隊長であったという。”彼はこの乱による手腕が買われたのか、後に孝徳朝の重臣となり、” “大化改新の中心勢力がかつぎあげた二人の大臣” “が死んだ後に、大伴馬飼(長徳)と共に、それぞれ左大臣、右大臣になっている。”という。私は日本古代史に全然詳しくないので、この記述の専門的な整合性ということに関しては全く知らない。しかし、梅原猛氏も『隠された十字架』も賛否はありつつも高い評価を受けているので、信用する。

思い浮かんだことというのは、明治維新の際に孝明天皇を暗殺したとされる伊藤博文のことである。もっとも、孝明天皇の死因が暗殺であったか天然痘であったかは分からない。この説は、私はノンフィクション作家の鬼塚英昭氏が言っていたのを聞いて、それを採用している。

いずれも暗殺されたのは前の政治権力側の人間であり、そして暗殺した当の人間は暗殺後に出世している。この共通点が非常に面白いと思ったのである。日本国は話し合いで平和的に建国されたと竹田恒泰氏などは言うが、見えない暗殺の歴史がずっと続いているのではないか。

今は戦争は挟んだけれども明治維新からまだ150年と少ししか経っていないし、基本的には明治維新後の体制のまま来ているので、その秩序をひっくり返すような説は発表されないかもしれない。ちょうど藤原不比等が編纂させた(と梅原猛は言う)古事記日本書紀に不自然なまでに法隆寺に関する記述が無いように、沈黙を貫くことで事実は隠蔽されているかもしれない。

明治維新も1000年くらい経てば謎は解明されるだろうか?しかし、1000年前に編纂された神話と、日本古代の謎はいまだ解明されたとは言い難いのではないか。結局、天皇による権力者の末裔がずっと続いているということかもしれない。

梅原説によると、法隆寺はこのように暗殺された聖徳太子の一族による祟りを恐れて殺害した側の人間が建立(再建)したものであるというストーリーらしい。とするならば、アナロジー孝明天皇法隆寺ばりに盛大に祀らないと、明治維新の支配者たちは祟りにあうのではないか。しかし、結局はそのような1000年前の古代精神は失われていたから、という話で終わろうとしたが、調べてみると平安神宮

平安神宮についてあまり知らなかったが、左京区にあるので何回か行ったことがある。梅原氏は桓武天皇のことしか言っていなかったが、孝明天皇もしっかり祀られているではないか。建立されたのは1895年なので、やはり明治維新の支配者たちも祟りが怖かったのだろうか。むしろ十分にそれを分かっていたのかもしれない。

古代と近代の政治体制の節目と、法隆寺平安神宮というモニュメントの存在、日本に通底する何かがあるのかもしれない。