今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

近況 文脈と同一性

後期になりまして、オンライン授業が続いています。課題が非常に多い(当社比)ので、中々息つく暇がありません。ゆっくり文章を書く時間があまり取れませんでした。今もアーカイブが残るので3週間くらい受けていない授業のことを3週間くらいずっと潜在的に考えながら生活しているので、そういうところがややしんどいです。今日は今年度(今学期ではない!)初めて授業目的で(授業目的以外では何度か行っているので)大学に行ってきました。ルネで晩ご飯を食べて戻ると附属図書館が閉まってましたね。19時に閉まるんでしょうか。やはり家より自習室のほうが集中できる気がします。TOEICというものを初めて受けまして、それはそれは悲惨な(当社比?)点数でした。リスニングが酷いのは知っていたんですが、どれくらい酷いかを可視化する意味合いで、何も対策をせずに素のままで受けました。本当は3月くらいに受けたかったんですが、コロナで飛んでしまいましたね。顔のニキビが治らないので、皮膚科で処方された薬を飲んだり塗ったりしているんですが、結構効いている気がして、医学の力を実感しています。医学の力ってスゲー!京大の近くに自粛じゃなくて下宿していたり、寮に住んでいたりする人はそこに住んでいるというだけで存在が京大と紐づけられるので、京大生であるという自覚が抜けることはないのかもしれませんが(対面授業がなくても)、自宅でオンライン授業を受けているだけの生活をずっとやっていると、自分は大学生であるけれども京大生かと言われると少し困るというような心の状態になってくるので、定期的に何もなくても京大に行って京大成分を摂取しないと気持ちが死んでしまいます。そういう意味で、僕は度々郵送でもいいのですが、京大まで行って本を返しています。本といえば、今年は100冊読むということになっているのですが、現時点で84冊です。結構シビアかもしれませんね。来年は、まだ固まっているわけではないのですが、目標的なものを作るとしたら、英語の勉強をするということになるのかなあという気がしています。TOEICで何点とかいうのは分かりやすいですし、院試にも必要そうなので実用的な意味を含んでいます。そろそろ文脈と同一性の話をします。これは街で知り合いを見かけた時に話しかけるかどうかという具体的な問題が話のもとになっています。街で知り合いを見かけるという状況は頻繁には起きないので、そこそこ珍しい部類の現象に入れていいと思います。珍しいということはレアなので、できるだけ話しかけたいと思うわけです。(そう思わない人もいると思いますが、それは自分と相手との関係性にもよると思うので、ここではその人が本人ならそこそこ話しかけたいような人という状況設定にしておきます)ここで懸念されるのは、話しかけた相手がよく似た別人だったという場合です。これは非常に気まずいことになるわけでして、精神的にもあまりよくありません。雑踏を歩いていたり、電車やバスに乗っていたり、そういうその相手と出会うべき文脈(高校の同級生なら高校の教室とか、待ち合わせをしている相手なら待ち合わせ場所の近くとか、家族なら家の中とか)以外の場所でその相手と出会った時、話かけるかどうかという心の迷いのようなものが生じるわけです。この人は本当にこの人なのだろうかと。もしかすると私たちは(主語をあえて少し広く取りました)その人が本当にその人であるという同一性の担保に文脈を大いに使っているのではないだろうか。文脈がないと難しい、からさらにもう一歩踏み込んで、文脈こそが同一性やアイデンティティ(他者の?)を保証しているのではないか、そういうことをぼんやりと考えています。人の見た目などは容易に変わりますから、見た目では保証できないわけです。僕も成人式で中学の同窓会に行きましたが、顔も変わっているし化粧もしているのでそこにいる女子の半分くらいは誰かわかりませんでした。男子は分かりましたけどね。そうするとこの例はあまり良くないかもしれません。しかしいずれにせよ、その同窓会の場にいるということが、そこにいる女子たちが中学の同級生であったということを逆説的ですが、保証している、そう思わないと見た目では判断ができないので、説明できない。そういう見方の方がしっくりくるような気がします。自分が自分であるということもまた、同一性、アイデンティティという言葉を使って表現されます。日々体内の物質はどんどん入れ替わっていて、そういう意味で昨日の自分は今日の自分とは違うし、また睡眠という意識の断絶、意識の喪失という体験を毎日やっているわけなので、意識という意味でも自分が連続的な存在なのかということを懐疑することはできます。記憶も重要かもしれませんね。記憶問題についてはまた考えていくことにします。(先送り)しかし、記憶ということを考えても、昨日寝た場所で起きたとか(セーブかな?)昨日会った人と今日も会ったとか(一緒に暮らしている人?)そういういろいろな文脈が、自分の一貫性や同一性といったものを支えているような気がします。こういうことは多くの人が既に言っていると思いますが、知識としてではなく、自分で分かる、腑に落ちるという体験こそが重要なのではないかと思います。