今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

人はなぜお酒を飲むのか

表紙の女の子がかわいい哲学の本『読まずに死ねない哲学名著50冊』(平原卓、フォレスト出版)のアリストテレスのページを読んでいて、動いている何かの原因の原因の原因の...という風に原因を遡っていくと、最終的に「不動の動因」というこの世の全ての動きの根本原因であるところの神みたいなやつがあると考えられるよね、みたいなことが書いてあった。ニュートン運動方程式は、この世の根本原因ではない。それは、たとえば空気抵抗がある時は成り立たないよねみたいな話ではなく、空気抵抗とかそういうものが全て無視できるという理想的な場を考えるという話であって、空気抵抗を考えるにしても例えば速度に比例する抵抗力が物体に働くとか、そういう条件を付け加えることは可能である。しかし僕がしたいのはそういう話ではなく、たとえば原子レベルのミクロなことを扱うときにはもはやニュートン運動方程式は明らかに成り立たない。そこは量子力学が支配している世界である。ニュートン力学では量子力学の効果は想定されていない。つまり、ミクロな方にニュートン力学を持って行って不成立を見るというだけでなく、マクロな現象を考えている時も、量子力学のことは考えていないということである。現実にはマクロとミクロとの間に境界がある訳ではなく、本来は連続的であって、どんなマクロな現象に対しても、ミクロの効果を全く無視して良い訳では無い。それはあくまで効果が限りなく小さいので、近似的に無視できるというだけである。つまり、ニュートン運動方程式は現実に対する近似解に過ぎない。僕は統一理論の話をしている。しかし、その統一理論は、厳密解なのか。ここでいう厳密解とは、不動の根本原因のことである。かつて一瞬だけニュートン力学とマクスウェル電磁気学で全て説明できると考えられていた時代、それらは万物の統一理論だった可能性がある。そして今度、本当に万物の統一理論と思われるものを手にしたとき、それは本当の万物の統一理論ではない可能性がある。僕がしたいのはこういう話では無かったかもしれない。もっと経験論的な懐疑だったかもしれない。でもそれを思い出せなくなりつつあり、言葉を紡ぎ出せなくなっている。

私たちはなぜ、お酒を飲むのだろうか。人間には欲求や欲望というものがある。食欲や、性欲や、睡眠欲といったもの。これらは本能に根差した本源的な欲望である。欲望は、時間経過で発生する。そして、満たされない状態が続くと、大きくなり続ける。欲望が満たされると、それは一時的にせよ、小さなものになり、幸福や快感を感じる。欲望は、人間が制御できないものだ。もちろん人間には理性があるので、破滅を迎えることはないが、ここで言う制御できないとは、欲望が発生し大きくなっていくという事実の方に向けられている。それを満たすことで解消することはできるが、人間が生きている以上このサイクルを止めることは、出家でもしない限り?基本的にはできない。お酒を飲むと、人間は段々と自分を制御できなくなっていく。量が多ければ、破滅を迎えるが、そうでなくても、たとえば手先が上手く操作できなくなるとか、会話の内容が上手く頭に入ってこないとか、自分の考えがまとまらなくなるとか、そういった自分の制御の出来なさがある。お酒はそして、時間経過で解消される。人間の体の作用によって化学的に分解される。欲望は時間経過で大きくなり、そこには自分の制御できなさがある。そして満たされると幸福や快感を覚える。お酒はそうした、制御のできなさとその解消による快感という、本能による欲求の作用に近いものを人為的に(擬似的に?)作り出すという効果があるのではないだろうか。だから人はお酒を飲む。満たされない本当の欲求の話は置いておいて、代理的に欲求が満たされる快感を味わうために。そこでは単にお酒を飲むことや会話によって満足しているのではなく、「制御のできなさ」の解消による満足が確かにあるのではないか。