エセー(随想録)

その後何十回何百回と通り、行くことになる道や場所もその初期に抱いていた印象は印象だけが独り歩きして、何百回とその空間に足を運んだ後には二度と行くことができなくなっている 最初の数回、その場のもつ力のようなものに圧倒されて奥行きや距離感が、まるで赤ちゃんが母国語を習得するまではどこの国で産まれた赤ん坊であってもあらゆる言語を習得できる脳の仕組みをもっているにも関わらず、母国語を習得した後には他の言語を習得することが困難になっているという説のように、その場の 後にその場を捉える際に知覚される特徴以外のあらゆる対象へ意識が吸い取られるために、正しく認識されない あるいは、何十何百回と通った道も反対側から眺めると初めてその場に降り立った場所に変わるということはもちろんある もう二度と行くことができなくなった場所はその場所に行くたびにその感覚を思い起こさせられる


大学?なんでも聞いた話によると偉大な隣国の大学では大学の授業が母国語ではなく国際標準語で行われているらしい 我が国では一応名だたる既開発国の中ではほぼ例外的にと言ってよいほど珍しいらしく母国語で大学の授業が行われているそうだが、明治以降にそれまで蓄積された膨大な隣国の言語体系を用いて大量の翻訳語を作りそれを我が国は導入してきたわけで、体裁としては母国語というものを維持しているとしてもその表現の、こなれたと言われる表現でさえも、外来語との一致の多さを見るにこの国の言葉は実は英語なのではないかと自然に思われてくる


心臓が動いているということを当然視しないのであれば、心臓がいつ止まるかということに関して我々はその心臓に恐怖させられる 脳に色々なことを任せすぎている あともう少しで思い出すことができそうなのに最大値が横軸に満たない上に凸な放物線のように変数を無限に飛ばすと永久に思い出せなくなったこと その初期の印象と現実とがないまぜになった状態で夢に出る 私たちはもう二度と行くことができなくなった場所へ たとえ行くことができたとしても戻らなければならない

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ご協力ありがとうございました(^^)

 

 

ようこそ - 今後、旅の日記を書くために用意したブログ

複雑なクイズのルールを作るのが好きなので複雑にしました

ルール名:励起シーソー

以下の状態がある
状態1:αとβ 
状態2:αとβ 
状態3:αとβ

はじめ、全参加者は状態1のαである。1問正解すると状態1のβに移るか、状態2のαが基底状態のときは「上に飛ぶ」ことができる。ただし、最初の設定では状態2の基底はβの方である。

ここで「励起状態」を定義する
励起状態:各1〜3までの状態において、αとβのうち、存在する参加者の数が少ない方は「励起」していると呼ぶこととする。また、αとβのうち励起状態ではない方を「基底状態」と呼ぶ。

「上に飛ぶ」:「上に飛ぶ」ことができるとき、参加者は状態1にいるなら状態2に、状態2にいるなら状態3に飛ぶことができる。ただし「上に飛ぶ」ことができるのは「1→2」または「2→3」のそれぞれ同じαまたはβが「励起→基底」のときだけである。

ひとりを除いて全員が状態2または3に移行したときは、取り残された1人はより高次の状態に移行することができなくなるため(なぜならば状態1または2に一人しか存在しないときはその者がいる方のαまたはβが常に「基底」となり「上に飛ぶ」ことが不可能となるためである。)失格となる。

問題に正解すると各状態のαとβのうち自分がいない方に移動するか、αとβのうち自分がいる方が励起状態で、かつ自分より1段階高次なαまたはβが基底状態のときは「上に飛ぶ」ことができる。

状態3に到達したものは1問正解するとクリアとなる。

各状態において、αとβにいる人数が同数である場合は、その直前にその各状態がそうであったように各状態はふるまうものとする。

状態3の基底は状態2に2人以上が存在するときに初めて、定義される。
(つまり状態2に1人、その他大勢が状態1という事態の下では、状態2にただ1人存在する者は決して状態3に上がることができない)
一番最初に状態2に2人以上が存在する事態になったときは、状態2に1人だけが存在していたとき励起していた状態2のαまたはβと同じ方の状態3のαまたはβが基底となる。以後、状態3に一人も存在しないときは、状態2の励起と同じ方の状態3のαまたはβが基底となる。状態3に一人でも存在するときは、状態3においてより人数が少ない方のαまたはβが基底となる。

下宿したら始めたいこと:備蓄

1ヶ月以上ブログ更新をサボっていたらはてなブログからメールが来て思い出したので少し書く

 

書くために書くことを「作る」という感じではなくて、書いているときには既に(文章が頭の中に既にあるということではなくて)書きたいことが「作られている」状態であとは文章化するだけという状態で書きたい その方が短時間で書けてストレスがかからない気がする そもそもブログというのは書きたい時に書きたいことを書きたいだけ書く(そしてこれには当然書かない時は書かないという自由も含まれている)という部分が大きいので、書くときに少しでもストレスがかかるというのは無⇄書くの平衡を大幅に左に移動させてしまうことになるのだ

 

数学の問題を解く時、最初から解き方が分かるわけではないので(見た瞬間に答えが分かるレベルの問題もあるが、それとは今は別の話である)一から解答を書き上げるために最初は色々と式変形だったりとりあえず微分したりとかするわけだが、僕はある時期まで気がつくと以下のような状態に陥っていて話が全く前に進まないということがあったので(今も無いというわけではないが、このことを意識することでそのリスクを低減させることはできていると思う)その話をしたいと思う
問題初期の色々とやってみる段階で何をやってみるか(たとえばf(x)とおいて微分してみようとか)というのは問題文に与えられた条件や、今までの経験などから色々と思いついたりするわけであるが、実際に(複雑な関数だったりなどすると)何が(微分することによって)起こるかというのは計算してみないと(自分は)大体見えない。そこで、問題解決の初手の動きとしてこのとりあえず何かやってみるという活動は致命的に重要な訳だが、ある時期まで自分はこの初手の条件反射(微分しようとか帰納法で証明しようとか)の頭の中の内なるつぶやきを完全に抹殺して(このつぶやきを拾い上げずに)ひたすら考えるということをやっていた。無意識に。この〜をやろうというのは最初は大きな声ではなくて、こんなことも検討の1つには入るのではないでしょうか?という形で頭から提案されるようなものなのであるが、自分はこの弱者のうめき声のようなものを無意識に見捨てていて問題が全く解けないという事態に陥っていたのです。問題を解く上で、弱者の声に耳を傾けることは重要なのである。最寄駅についた

帰納法、場合分け。あるいは責任問題

まず、自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことについて自分が苦しむ、あるいはしんどくなるということはふつうに了解されることであると思う。そして逆に、自分が苦しんでいる、あるいはしんどくなっているということについて、その原因は自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことにあると考えることも、自然に導かれることであると思う。そこで、その自分が苦しんでいる、あるいはしんどくなっている原因たる、自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことを追跡して思い浮かべてみる。思い浮かぶときはよい。問題は思い浮かばない時である。そこで、この自分が苦しんでいる、あるいはしんどくなっている原因である自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことを記憶を遡って追跡しても思い浮かばないという時に考えられる状況を二つに分けて考えてみることにする。まず一つ目というのは、思い浮かばないのは本当に自分が悪いこと、あるいは原因たる少なくとも良くはないことをしていないということである。ことなのであるが、この方針では自分が苦しんでいるということを説明できない。原因は他者にある___あるいは少なくとも自らの外部にある、と考えることも可能ではあるが、苦しんでいるのは当の自分なのであり、この'原因の外部化'は自分が苦しんでいる、あるいは少なくともしんどくなっていることについての根本の原因を説明するものではない。というわけでまず一つ目の場合は行き止まりである。次に二つ目の場合というのは、自分が苦しんでいる、あるいは少なくとも苦しくなっている原因を自分の過去に遡って追跡してみても発見できない場合、それは実は自分の意識外、自分の責任範囲を超えた領域でなされた悪事のせいで自分が苦しんでいるのであると解釈することである。自分が苦しんでいる、あるいは少なくともしんどくなっていることの原因は、自分がおこなった何か悪いこと、あるいは少なくとも良くはないことにあると考える、というまず広く了解されうるであろう立場に今立っているので、この解釈は妥当である。妥当ではあるのだが、それでもしかし、自分がおこなったとはいえ自らの意志の範囲外でなされたことについて自分が責任を負うということは少し受け入れがたいようにも思われるのである。ここで二つ目の立場も行き止まりとなった。なったが、いま自らが苦しんでいる、あるいは少なくともしんどくなっている現実と天秤にかけてこの行き止まった二つの立場を推し進めることもまた可能ではあるかもしれない。そもそもこの二つの見方だけでこの問題に関して場合が全て網羅されているのかという疑問は依然としてある。しかし、もしこの二つだけで全てが覆われているとするのであれば、それは背理的に言って当初に宣言した一般に広く了解されうるであろう説明を否定することにもなる。何が成り立ち、何が成り立たないのか、矛盾した自らの理解では何も説明することができない