余は如何にしてコスモポリタンとなりし乎

あの地震の日から僕の身体は揺れ続けている

 


数年前から二段ベッド,1階部分は机,で寝ています。今はオーストラリアに足を向けて寝ているのですが、地磁気が原因も分からず数十万年ごとに反転するように、僕の身体も数ヶ月ごとに反転しています。

ところで、人間の脳には場所ニューロンというのがあって、例えば目を瞑っている時も、脳は自分が今どこにいるのか、周囲の空間に対してどのような状態でいるのかということが認識できるようになっているという話をかつてどこかの本で読んだか何かしました。

そして僕は今、オーストラリアに足を向けて眠っているのですが、眠るために目を瞑っている時に、実際に寝ている身体の向きとは逆向きに、つまりオーストラリアに頭を向けて寝ている状態をイメージしながら寝ています。少しでも目を開けてしまうと、この作り上げたイメージが崩壊してしまうので、眠りに落ちるまでこの意識を出来るだけキープするようにしています。

以前当ブログで僕は寝つきが悪いという話を書いたことがありますが、僕は最近、電車の中でBBCディスカバリーチャンネルを聴いて英語を勉強しているつもりになっています。僕の儚いリスニング能力では、どれほど英語を聴くことに集中していても、英語が聴き取れる部分と聞き取れない部分とがまだら模様となって出現します。それはあたかも、僕が実際に寝ている向きとは異なる向きに寝ていることを強烈にイメージすることに集中している時、実際に寝ている向きのイメージが、実際に寝ている向きとは異なる向きのイメージの間に割って入ることかのようです。

場所ニューロンに抗って何がしたいのかという声が聞こえてきそうですが、僕はそういうことをしています

府の話

別にまとめなくてもブログなんだから好きに書けばいいじゃないとなってあまりまとめずにゆるゆると書きますけれど、今日は府と時間の話をしたいと思います

 

まずは府の話です

 

サイバー対策担当大臣がパソコンを使ったことがないだとか、入管法の改正を来年4月までの突貫でやるとか色々のことが話題となっていますけれども、その道に明るくないのでよくわからないのですが、国会というものは広く会議を興し万機公論に決すべしという精神で正しいのかもわかりませんが、これからの国のあり方を議論に議論を重ねて決めていく場であるべきだという立場に立つならば、法律を作るということは、法律というのは議論の結果の産物であるべきであって、国会という場は議論をするための場であるということなどの、目的と手段の様々な関係が「べき」のあり方とは異なるあり方で現在行われているのではないかという懸念や、それが国会や民主主義や何らかのシステムに内在する不可避の現象であるとするならば、結論が出なくても、そもそも議論で結論が出る問題というのはそんなに多くないことだと思いますが、それでも議論という行為自体が重要、重要なのはプロセスそのものなのだという考えに立つならば、国会とは別に、法律を作るということが国会の目的と化しているとするならば、国会とは別に「議論のための府」を作り選挙で選ばれたどこの骨とも分からない人々ではなくてあまり頻繁ではないが少なくとも一定間隔で識者を集めた議論を、議論だけを継続的に行う場というものを、こういうものが既に存在しているのかもしれませんけれども、設ける必要がある気がしています。気がしているだけなのでよくわかりませんが、この場というのはやはりパブリックにオープンな場でなければならないというのは変わらない原則の1つではないかと思います

 

時間の話は次回に回したいと思います

 

媒体のpizza

ポッドキャスト
電車
地理


吾輩の貧弱なる英語聴力の、例え僅かであったとしても、その向上を祈願して英語でpodcastを聴き始めて6日目、流し聞きでは意味がないと薄々感じながら今も英語を耳から入れながら、手は日本語を入力している。


しかしながら、この満員電車というシステムはその黒人奴隷船を彷彿とさせる人口密度から(筆者は黒人奴隷船を生身で見たことはない)凡そ前時代の遺物であると思うのだが、同様に前時代の遺物のような人々がなお今も満員電車を構成し、しかも恐らくその船を構成している一部であるという意識が乏しいために頻りに「自己」を主張して顧みないのは、見るに堪えないばかりか驚きですらある。
果たして自らの時代でコトを解決できなかった「一部」は、その責任をとって大人しく「一部」であるべきだという議論は通用するのだろうか


他者が世界をどのように捉えているのか、という問題は人々が長い間考え、そしてまた僕も意識的にか無意識的にか、あるいは潜在意識的にか、それを長く考え続けてきたように思われる。
それがトマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」のような形にまで行き着くと少しやり過ぎの感があるが、我々の日常生活のレベルでも、私と他者との間に世界認識についての狭からぬ間隙が存在するかもしれないということが私には次第に分かってきた

これはもしかすると実はそうではないのかもしれないが、最近分かったことは、人々はあまり日常で東西南北を意識して生活していないのではないかということだ

これは私が小学校低学年の頃の誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントに両親に「九州」や「中国・四国」といった自動車移動用の広域地図をねだっていた(結果的に日本全国をコンプリートした)などという特殊性を差し引いても、私がマジョリティではないということにはならないと私は思いたい問題である

一般に、私は(そして私の母も同じ種の人間である)初めて行く場所や(初めて降りた地下鉄の駅で地上に出た時や)不用意に手元の地形図をしばらく見ずに山道を適当に歩いた時などを除いては、基本的には今自分が東西南北の(あるいは北西や南東といった)方角のいずれに向かって進んでいるのかということを常に認識しているつもりである。そしてこれは、私にとってはごく普通のことであり、多くの人にとっても普通のことであると思っていた

私の世界認識と他者の世界認識との間にある程度大きな違いがあるということが明らかなったのは友人のA君(彼は、彼の自宅と彼が日常使用している鉄道駅との位置関係(例えば彼の自宅が路線の南側にあるといったこと)などを認識していなかったのである!)においてである。他にも、私と同じ高校に3年間通ったBさんは、高校のすぐそばを流れる一級河川(大きさはその地方随一といったところである)のどちらの方向が上流であるか、下流であるかということを認識していなかった

私はこのようないくつかの例に出会いながらも、しかしこのような例は特殊例であり、普通の人々はこのような世界認識ではあり得ないと考えていた(し、今もそう思いたい)

私の友人のCさんは、いわゆる方向音痴的な要素をその中に含んでいる人で、その人がある程度粗野な世界認識を有しているということは予め見当がついていたのだが(南北軸に対する「東」の偏角が+π/2であるか+3π/2であるかが分からないという程度の)その人と私との会話の内容を総合すると、私は「鳥瞰的な」視点でもって世界を見ており、その人は「平面的な」視座で見ているということらしい。

また友人のD君は、私が前述のA君の、彼が最寄り駅と彼の自宅との位置関係を把握していなかったことに驚いたというepisodeを共感を求めて話したところ、そのような事は普通認識しているものではないと前置きした上で「太陽が昇っている訳でもないのにどうしてそのようなことがわかるというのか」と述べた。なお彼はその時乗っていた列車が進行している方角を言い当てることができなかった。


さて、このような世界認識が一般的なものであるか否かは私には分からない。「平面的」な世界は「鳥瞰的」世界よりも、よりダイナミックに私に現れてくるに違いない。しかしながら、私はもはやそのような認知の仕方を獲得することは恐らくないし、また惜しくもあるがそれはしようとしてできるものでもないだろう。AndroidiOSで走ることはないのである

エセー(随想録)

その後何十回何百回と通り、行くことになる道や場所もその初期に抱いていた印象は印象だけが独り歩きして、何百回とその空間に足を運んだ後には二度と行くことができなくなっている 最初の数回、その場のもつ力のようなものに圧倒されて奥行きや距離感が、まるで赤ちゃんが母国語を習得するまではどこの国で産まれた赤ん坊であってもあらゆる言語を習得できる脳の仕組みをもっているにも関わらず、母国語を習得した後には他の言語を習得することが困難になっているという説のように、その場の 後にその場を捉える際に知覚される特徴以外のあらゆる対象へ意識が吸い取られるために、正しく認識されない あるいは、何十何百回と通った道も反対側から眺めると初めてその場に降り立った場所に変わるということはもちろんある もう二度と行くことができなくなった場所はその場所に行くたびにその感覚を思い起こさせられる


大学?なんでも聞いた話によると偉大な隣国の大学では大学の授業が母国語ではなく国際標準語で行われているらしい 我が国では一応名だたる既開発国の中ではほぼ例外的にと言ってよいほど珍しいらしく母国語で大学の授業が行われているそうだが、明治以降にそれまで蓄積された膨大な隣国の言語体系を用いて大量の翻訳語を作りそれを我が国は導入してきたわけで、体裁としては母国語というものを維持しているとしてもその表現の、こなれたと言われる表現でさえも、外来語との一致の多さを見るにこの国の言葉は実は英語なのではないかと自然に思われてくる


心臓が動いているということを当然視しないのであれば、心臓がいつ止まるかということに関して我々はその心臓に恐怖させられる 脳に色々なことを任せすぎている あともう少しで思い出すことができそうなのに最大値が横軸に満たない上に凸な放物線のように変数を無限に飛ばすと永久に思い出せなくなったこと その初期の印象と現実とがないまぜになった状態で夢に出る 私たちはもう二度と行くことができなくなった場所へ たとえ行くことができたとしても戻らなければならない

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