今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

BGMメモ

実況者のテラゾー氏がかつて主催していた人狼放送、人狼舞踏会

人狼舞踏会とは (ジンロウブトウカイとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

で、例えば

www.nicovideo.jp

の夜時間に使われているBGMは、菊田裕樹氏の人狼伴奏音楽集

www.youtube.com

にはなかったので、Shazam for Macで調べたところ、

Eyer LimのI Wait for You、もしくはWait for Youと表記されている曲であることが分かりました。

www.youtube.com

テラゾー氏が音源としてYoutube Audio Libraryを挙げていたので、最初はAudio Libraryをずっと探していましたが、見つかりませんでした。多分Youtube Audio Libraryにはない気がします。あったら教えて下さい。

また、音源は2分程度か5分程度のものしかYoutube上にはなく、夜時間3分間でちょうど使っている音源は分かりませんでした。あったら教えて下さい。

名前とルーツ

philosophiaichi.hatenadiary.jp

 

以前、こちらの記事で文脈と同一性についての話を書きました。私たちはある他者がその他者であることを確定するために文脈を大いに使っているのではないかという観点から、逆に文脈こそが同一性を担保している真の原因なのではないかというようなことを考えました。そして最後に、自己の同一性や一貫性ということに関しても、文脈やあるいは記憶が重要な役割を担っているのではないかというようなことを書いたと思います。今回は名前とルーツのお話です。ところで、自己同一性という意味のidentityという言葉がありますが、他者がその他者であるような他者の同一性、一貫性を意味する格好いい言葉は無いものでしょうか。iに対してyouを使ってyoudentityとか、いいんじゃないかと思います。前回は、街で知り合いを見かけた時にその人が本当に自分の知っているその人か、見た目では判断できないので、文脈の効果が重要だという話でした。または、そういう例についてでした。今回は、非常にそれと似ているけれども、少し異なった状況について考えてみたいと思います。それは、今回も文脈無しで、そして見た目では判断できず(前回は同窓会で化粧が濃かったかつての同級生が誰か分からないという話でした)という状況で、そのある人は私が誰であるかを一方的に認識しているという状態です。相手は、私が何者であるかを知っています。そして、私は相手が誰であるか、思い出せないか、もしくは非常によく似た別の人をもう一人知っていて大方この人ではないかと分かってはいるけれども、確定はできていないというような状況です。ちなみに私には双子の従兄弟がいて、毎年か何年に1回か会いますが、未だにどちらがどちらであるかを知りません。さて、そのような状況で非常に強力な武器となるのが、名前です。名前は非常に強力な、同一性を確定させるための手段です。同姓同名で見た目もよく似ているという例はあまりありませんから、一般的に強い方法です。つまり、相手に名前を聞くということです。これは非常に安全です。相手が誰であるかが確定できない状態で物事を進めるのは非常に難しいからです。ごめんなさいどこかでお会いしたことがあるのは分かっているのですがお名前をお伺いしてもよろしいでしょうかと尋ねれば良いのです。問題はここからです。ここからというか、問題はここではない場所にあります。まず第一に、名前を聞いてもまだピンとこない場合、それは危機的な状況であることに違いありません。その場合は、さらに続けて以前どこで私とお会いしましたかというような別の文脈から相手を確定させる必要があります。ちなみにこの方法は、名前を聞いた段階でyoudentityが把握(youdentityの使い方がこれで合っているか私は知りません)できた場合にも、以前どこどこでお会いしましたよねと伝えることで私はあなたのことを覚えていますよというメッセージを相手に伝えることに使うことができます。第二の問題は、これはより深刻というか、名前というものの本質に関わる問題ですが、以前会った時に相手から相手の名前を聞き出すか、あるいはその他の方法を使って相手の名前を知っている必要があるということです。しかしながら、一般的には名前というものは相互に認識している必要があるというか、私は名前を知らない相手が私の名前をなぜか知っているという状況はやや不自然の感があります。よって、相手の名前を自分が知っているためには、自分の名前もまた、相手が知っているという状態にしなければなりません。自分の名前というのは普通皆覚えていて、だから記憶の問題に分類されるかもしれませんが、私は名前というのは文脈だと思います。非常に様々な要素がそれと紐づけられています。文脈であるからこそ、それを使ってidentityを保証しyoudentityを確定させることができます。だから自分が名前を知らない人を探したり、自分が名前を知らない人を他者に伝えることには、大変な困難が伴います。ですがその一方で、こんなことを言うとお前は矛盾していると言われそうですが、名前がdentityを確定させる非常に強力な手段であるからこそ、お互いに名前を知らない人間関係もまた、非常に美しいと思います。そういう状態は通常長くは続きませんが、しかし名前にはそういう面、使い方もあると思います。かなりぼかした言い方をしましたけどね。

そろそろルーツの話をして終わりにしたいと思います。ルーツもまた、その人をその人であらしめる文脈だと思います。だからなのでしょうか、多くの場合無意識なんじゃないかと思います。自分が他の人に、また他の人が自分に、そのルーツの話をするという状況に意識すると何回も遭遇している気がします。基本的に人との出会いは一期一会ですが、その中で人は、一生懸命に自分の文脈と相手の文脈を相互に結びつけようとしているのかもしれません。そういう風に思っています。

近況 文脈と同一性

後期になりまして、オンライン授業が続いています。課題が非常に多い(当社比)ので、中々息つく暇がありません。ゆっくり文章を書く時間があまり取れませんでした。今もアーカイブが残るので3週間くらい受けていない授業のことを3週間くらいずっと潜在的に考えながら生活しているので、そういうところがややしんどいです。今日は今年度(今学期ではない!)初めて授業目的で(授業目的以外では何度か行っているので)大学に行ってきました。ルネで晩ご飯を食べて戻ると附属図書館が閉まってましたね。19時に閉まるんでしょうか。やはり家より自習室のほうが集中できる気がします。TOEICというものを初めて受けまして、それはそれは悲惨な(当社比?)点数でした。リスニングが酷いのは知っていたんですが、どれくらい酷いかを可視化する意味合いで、何も対策をせずに素のままで受けました。本当は3月くらいに受けたかったんですが、コロナで飛んでしまいましたね。顔のニキビが治らないので、皮膚科で処方された薬を飲んだり塗ったりしているんですが、結構効いている気がして、医学の力を実感しています。医学の力ってスゲー!京大の近くに自粛じゃなくて下宿していたり、寮に住んでいたりする人はそこに住んでいるというだけで存在が京大と紐づけられるので、京大生であるという自覚が抜けることはないのかもしれませんが(対面授業がなくても)、自宅でオンライン授業を受けているだけの生活をずっとやっていると、自分は大学生であるけれども京大生かと言われると少し困るというような心の状態になってくるので、定期的に何もなくても京大に行って京大成分を摂取しないと気持ちが死んでしまいます。そういう意味で、僕は度々郵送でもいいのですが、京大まで行って本を返しています。本といえば、今年は100冊読むということになっているのですが、現時点で84冊です。結構シビアかもしれませんね。来年は、まだ固まっているわけではないのですが、目標的なものを作るとしたら、英語の勉強をするということになるのかなあという気がしています。TOEICで何点とかいうのは分かりやすいですし、院試にも必要そうなので実用的な意味を含んでいます。そろそろ文脈と同一性の話をします。これは街で知り合いを見かけた時に話しかけるかどうかという具体的な問題が話のもとになっています。街で知り合いを見かけるという状況は頻繁には起きないので、そこそこ珍しい部類の現象に入れていいと思います。珍しいということはレアなので、できるだけ話しかけたいと思うわけです。(そう思わない人もいると思いますが、それは自分と相手との関係性にもよると思うので、ここではその人が本人ならそこそこ話しかけたいような人という状況設定にしておきます)ここで懸念されるのは、話しかけた相手がよく似た別人だったという場合です。これは非常に気まずいことになるわけでして、精神的にもあまりよくありません。雑踏を歩いていたり、電車やバスに乗っていたり、そういうその相手と出会うべき文脈(高校の同級生なら高校の教室とか、待ち合わせをしている相手なら待ち合わせ場所の近くとか、家族なら家の中とか)以外の場所でその相手と出会った時、話かけるかどうかという心の迷いのようなものが生じるわけです。この人は本当にこの人なのだろうかと。もしかすると私たちは(主語をあえて少し広く取りました)その人が本当にその人であるという同一性の担保に文脈を大いに使っているのではないだろうか。文脈がないと難しい、からさらにもう一歩踏み込んで、文脈こそが同一性やアイデンティティ(他者の?)を保証しているのではないか、そういうことをぼんやりと考えています。人の見た目などは容易に変わりますから、見た目では保証できないわけです。僕も成人式で中学の同窓会に行きましたが、顔も変わっているし化粧もしているのでそこにいる女子の半分くらいは誰かわかりませんでした。男子は分かりましたけどね。そうするとこの例はあまり良くないかもしれません。しかしいずれにせよ、その同窓会の場にいるということが、そこにいる女子たちが中学の同級生であったということを逆説的ですが、保証している、そう思わないと見た目では判断ができないので、説明できない。そういう見方の方がしっくりくるような気がします。自分が自分であるということもまた、同一性、アイデンティティという言葉を使って表現されます。日々体内の物質はどんどん入れ替わっていて、そういう意味で昨日の自分は今日の自分とは違うし、また睡眠という意識の断絶、意識の喪失という体験を毎日やっているわけなので、意識という意味でも自分が連続的な存在なのかということを懐疑することはできます。記憶も重要かもしれませんね。記憶問題についてはまた考えていくことにします。(先送り)しかし、記憶ということを考えても、昨日寝た場所で起きたとか(セーブかな?)昨日会った人と今日も会ったとか(一緒に暮らしている人?)そういういろいろな文脈が、自分の一貫性や同一性といったものを支えているような気がします。こういうことは多くの人が既に言っていると思いますが、知識としてではなく、自分で分かる、腑に落ちるという体験こそが重要なのではないかと思います。

未知の惑星の地政学

地政学とは、地球上の地理的な制約が国家の政治や軍事戦略に与える影響を考察する学問分野のようで、有名なところでは『マッキンダー地政学』を著してハートランド理論を構築したマッキンダーや、『海上権力史論』を著してランドパワーとシーパワーの勢力争いとして現実を分析したマハンなどが知られているようです。これらは現実の地球の地理的環境から着想を得て、また現実の地球上における人類の勢力争いや戦争に大きく影響を受けて構築されている学問ですが、実用上の必要性などは全く無視して単なる好奇心の問題として、海がある全く未知の惑星に人類が降り立った時、降り立つ前にどういう地形的条件があるところや場所に拠点を構えるべきなのかというピクミン的なことを考えてみたりするわけです。その惑星では、一番大きい大陸はどれくらいの大きさなのでしょうか。あるいは日本やイギリスのような島国みたいな地形に拠点を構える方がよいのでしょうか。後で追加で別の人類の集団がやってきた時、まあそんなにすぐに戦争になることはないと思いますが、それでも未来や自分たちの子孫がその惑星で勢力を確保し、繁栄するためには、初期条件というものの存在は無視することはできないと思います。その惑星には、地球が何らかの事情によって居住ができなくなって、あるいは人類が地球に住んでいた時代はとっくに過ぎ去って、宇宙を転々としながら生活している時代に、到達するという話なのかもしれません。そして、そういう新しい惑星における地理条件というのはほとんど無限に可能性が考えられるわけで、また居住している最中に温暖化が進んで海面が上がる縄文海進みたいなことだって起きるかもしれません。そういう色々な可能性が考えられる中で、直面する状況に対処するためにはやはり何か統一的な原則が必要になるのだと思います。地球で発達している地政学も案外そのまま役に立つのかもしれません。何が言いたいのかというと、別にそういう研究が今すぐ必要とかそういうことを言っているのではなくて(もしそうだとしたら、それは実用的な研究になってしまいます)そういうことを考えてみることはちょっと面白いのではないかということを思ったりしているというわけです。

 

前期取っていた授業の最後の方で教授が『IT全史 情報技術の250年を読む』(中野明、祥伝社、2017)という本を紹介していたので、読んでみました。内容は、産業革命前後から近未来までの情報通信技術の歴史的推移というか経過をまとめたもので、中々面白いと思いました。その中で、イギリスが植民地をたくさん持ち、電信網を地球中に張り巡らせることでイギリスはいち早く世界の情報を入手し、電信がイギリスの世界覇権に一役買っていたという話がありました。そこでは情報の伝達速度が問題になるわけです。現代でも衛星通信であるとか海底ケーブルを使って超高速での通信が可能となっていますが、これは根本的には地球の大きさに対して光の速さが速すぎるという事実によって支えられている部分が結構あるのではないかと思うわけです。何が言いたいのかというと、もし未来的に十分考えられることですが、人類が地球外に勢力範囲を拡大して火星とか冥王星とかで活動するようになった時には、この通信速度の問題がまず間違いなく立ちはだかってくると思います。なぜなら光より速いものはなく、通信速度というのは光の速さという上限に決定的に規定されるからです。そうすると、宇宙の活動において大航海時代の後のパクス・ブリタニカの時代のようにある一つの勢力だけが覇権を獲得するということは、情報の面から見て優位に立つことは難しくなるのかもしれません。まあ、そうではないという可能性はいくらでも考えられますが。あと、そういう宇宙時代において生じるのではないかと思うもう一つの懸念があって、もうこういうことは誰かがとっくに問題にしていてもう解決しているのかもしれませんが、宇宙規模の活動においては相対論的に基準時間的なものが設定できないのではないかということです。ウラシマ効果と言われればそれまでかもしれないですが、あれは行って帰ってくるということですが、同時刻の判定ができなくなる、または先着順みたいな状況で別に地球じゃなくてもいいですが、地球に近い惑星の人ほど有利みたいな、あるいは遠隔地で起きた犯罪のために上手いこと時間の前後を誤魔化してアリバイが立証できないとか立証できるとか、そういうことが可能なのか分かりませんが、宇宙時代のための法律体系みたいなものも必要なのかもしれません。でもこれは法律の知識だけでなくて理系の相対論や宇宙論の知識も必要になってきますから、中々難しいのかもしれません。そしてこれについても、今すぐ誰かがやらないととかいうことではなく(実用的になってしまいます)そういうことを考えることがちょっと楽しいという感じであるということを断っておきたいと思います。

 

木曜から後期が始まりまして、なんとか宿題を残さずに3連休に突入しました。課題即日処理の原則とでも名付けましょうか。守られる気がしませんね。年内100冊を目標に本は読んでいきたいと思います。割とこう本を読んでる人が珍しいのか、どうやったら本読めるのみたいな話で話題ができるのでそういう目的で読んでたわけではないですが、そういう目的で読んでも面白いなと思うようになりました。1年くらいやっていたバイトはいま週0回にして、新しく始めたバイトが割と楽しく楽なので嬉しいです。今回はこの辺にしときます。

今年もあと約100日

1月11日に今年は100冊読むということを目標として決め、今年もあと約100日になろうかなったかという所で72冊を読了しており、100冊が現実的な視界に入っている。子どもの頃から本をたくさん読むのはいいことだと聞かされてきたにも関わらず、我々の多くは本を、例えば1年100冊ペースで、読んでいるとは言い難い。本をたくさん読むためには何が必要なのだろうか。考えていきたい。

まず1つ目は、本を見つけることだ。本をたくさん読むためには、それ以上に本をたくさん見つけなければならない。読み始めたけどあんまり面白くなかったから読むのをやめるというのは正しい判断だと思う。苦痛に耐えながらする読書は長続きしない。持続可能ではないし、また今後いつかその本が楽しく読めるようになるまで置いておくという判断でもある。次のような不等式が存在する。(読むことができる冊数)≦(見つけた本の数)。たくさんの本を読むためには、当たり前だがたくさんの本を見つける必要がある。それも面白く、持続的に読むことができ、読むことが苦痛にならない本を、大量にだ。そのためには、仕組みとして大量の本が視界に入る状況を作らなければならない。出版社のTwitterをフォローするとか、好きな作家の新刊情報を定期的にチェックするとか、面白かった本の著者の過去の出版物に目を通すとか、定期的に書店や図書館に行くとか、あるいは図書館に入る新刊をチェックするとか。とにかく質より量で大量の本の情報を入手する必要がある。実際に読むかどうかはまたそこから先の話だ。インターネットは強力なツールになると思う。だから、自由にインターネットが使えない幼少期や児童期に、たくさんの本を読めと迫るのは酷だと思う。

2つ目は、本を手元に置くことだ。手で持つことができる本にしても電子書籍にしても、手元に本がないと始まらない。その本を読むかどうかは、手元に本がある状態になって初めて決めることができる。だからタダで何回でも本を借りることができ、読もうと思った本なら大体どんな本でも所蔵されている図書館へのアクセスが確保されているかどうかは、決定的だと思う。地域の小さな図書館や学校の図書室ではどんな本でもという訳にはいかないし、また新刊の導入スピードも速くないので不十分であって、どでかい大学図書館がいいと思う。幼少期や児童期には一般的には大学図書館を使用することはできないし、また本の難しさの問題もあるので、この点でもたくさんの本を読めと迫るのは酷ではないか。

3つ目は、自力で本を購入できる収入を確保することだ。親の許可が必要だと、親の顔色を伺う必要があって、読みたい本もまともに読むことができない。また、図書館だけでは不十分で、本を読むためには大きな書店やAmazonを利用することも不可欠だ。さらに言えば、自分の所得の責任の中で購入した本は、別に読まなくてもよい。幼少期や児童期に親に買ってもらった本はスポンサーからの圧力がかかるので読まなければならないという意識が生じる。そうした意識が生じず、面白くなければ読むのをやめることができ、積読として手元にある読むことができる本の冊数を増やすことは、大量の本を読むのに寄与する。

こうした、インターネットを利用した情報の検索や大量の本へのアクセス、大きな図書館や書店の存在、また自力で読みたい本を好きなだけ確保できる条件なくして、本を大量に読むことはできないと思う。限られた本のリストの中から、そのリストの中にある本のうち読んだ本の比率を上げるという手法では、本を読む活動は長続きしない。以上、大体このようなことが半年以上できるだけ本を読もうと努めて個人的に分かってきたことである。考えは今後変わるかもしれないし、人によっても向き不向きがあるかもしれないが、人に本を読むことを勧める立場にある人は本をたくさん読んでいるべきだと思う。最後に、本をたくさん読むために必要な最も大事なことをお伝えしよう。それは、あなたがいま手に持っているスマートフォンの代わりに本を持つことだ。あなたが何処かへ出掛けるとき、カバンのポケットに本を1冊忍び込ませることからまず始めてみてはどうだろうか。

伊吹山、日帰り山行 大阪から

9月某日、滋賀県伊吹山に大阪から日帰りで行ってきたので、そのことを書きます。

快速で米原駅に7時39分着。車中は座れました。京都〜草津間が一番混んでいた印象。駅でトイレを済ませコンビニでおにぎりを2つ買いました。

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7時44分、米原駅改札内電光掲示板の様子

8時03分発の電車で近江長岡駅を目指します。米原から2駅です。

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8時13分、近江長岡駅ホームにて

近江長岡駅JR東海の管轄なので、JR西日本の駅からPiTaPaなどで入ると出れません。私も駅員の人に精算してもらいましたが...

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8時19分、駅から望む伊吹山

改札の外にトイレがあります。駅舎内にはベンチと自販機があります。バスは写真と反対方向、駅舎から出て左に曲がり徒歩10秒です。

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8時39分、伊吹登山口いきバス

バスは8時45分発です。発車する前に、運転席横の料金投入口で両替が出来るので、そこで370円ぴったり用意しておくと降りる時にスムーズです。乗車券を取って後ろのドアから乗り込みます。座れました。バスは20人ほど乗っていた印象。みんな登山格好です。9時01分に伊吹登山口(終点)に着きましたが、その1つ手前のバス停(伊吹小学校前)で前の方に立っていた3人ほどが降りていきました。玄人感。

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9時07分、バス停横トイレ前にて

バス停降りて階段を上がるとトイレがあります。登山口を示す表示があるので入り口は迷わないと思います。帰る時に気づきましたが、ここは神社の境内のようです。登山口で入山料300円と、登山届け(簡易)を箱に入れて、登山開始です。

登山口の標高は210mで、約200m(高さ方向)グネグネと曲がる森の中を進むと1合目(415m)です。

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9時45分、1合目のトイレ前から

写真中央左の屋根の下で10分弱休憩し、そこから少し上がるとトイレがあります。トイレは、登山口、1合目、3合目、山頂にあります。結構整備されている方だと思います。冬はスキー場になるそうです。

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9時48分、1合目と2合目の間で

米原市のホームページによると、メハジキだと思います。

www.city.maibara.lg.jp

9時58分に2合目(580m)に着きました。10分ほど休憩しました。木陰とベンチがあります。

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10時00分、2合目から望む

琵琶湖が見えます。この日はよく晴れていました。1合目から2合目は日陰なしです。

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10時13分、滑空している人を目撃

2合目から3合目は、最初はやや日陰ですが、日陰がない部分も多いです。長袖を肘までまくっていたので、次の日も日焼けが少し痛みました。なんとも健康的な健康被害です。

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10時35分、三合目(720m)到着

写真左奥に見える建物はトイレです。休憩用の屋根のついた建物も別にあり、壁に植物の写真が貼ってありました。また、どこかにここから先は山頂までトイレがない旨が書いてありました。

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15時34分、帰りに撮影

3合目の直前には柵で囲われて自由に入れる植物園(大袈裟な表現)みたいなのがありました。入りませんでしたが...

4合目まではほとんど平地です。4合目の表示から先は、やや木に覆われて日陰があります。

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11時09分、5合目着

5合目です。自販機があります。自販機の影は日陰なので休憩ができます。また、コロナが無ければ営業していたかもしれない店がありました。何の店かは分かりませんが...

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11時30分、小屋

5合目からも見えていた小屋に着きました。緊急避難小屋かと思います。5.5合目くらいの場所にあります。日陰なので休憩できます。このあたりから、同伴者が寝不足で足を攣って歩行速度遅めになりましたが、山頂の稜線には予定通り登山開始から4時間で着けました。

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11時40分、6合目(990m)

ひたすら日陰のない石がゴロゴロした道を右へ左へと登っていきます。石が多いのは帰りのほうが意識させられました。暑かったですが、風は吹いており秋の陽気です。絶景なのが救いです。

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12時21分、下界を望む

写真では伝わらないかもしれませんが、絶景です。

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13時01分、本日のベストショット

13時に稜線につきました。登り始めが9時なので、地図タイム通りです。みんな健康なら無理なくこれより速く登れると思います。また、この日は平日でしたが、学生から社会人からaged personの方まで人口はとても多いように感じました。そんな話を稜線で休憩している人としました。

13時10分に登頂です。1377m、伊吹山地の最高峰です。

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13時16分、山頂にて

山頂の近くまで車で来れるらしく、人は多いです。

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13時17分、様々な店が立ち並ぶ

2合目付近で既に下山してきているグループがあったので、山頂で宿泊が恐らく出来るようです。私も山頂でソフトクリームを頂きました。(500円、ソフトクリームを買っているのか山頂でソフトクリームを食べるという経験を買っているのか...) 

ベンチと机があるのでそこで調理ができます。食事を摂りながら、麓に住んでいるというaged personの女性2人と、同じく大阪から来たという玉ねぎをまな板で切っていたらしい社会人風の男性の方と会話を楽しみました。

トイレを済ませ、14時15分ごろに下山開始です。

元来た道を戻るだけで特に新しい要素はないので、割愛します。

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16時31分、登山口に無事帰還

 16時49分に、伊吹登山口バス停からのバスに乗り帰宅の途につきます。

途中、我々よりも先に下山していた人が、ジョイ伊吹というところで着替えて乗車してきたので、シャワーなどが利用できるのかもしれません。今後の研究としたいと思います。

電車が3分遅れていたおかげで近江長浜駅でちょうど乗ることができ、30分早く帰ることができました。交通費が若干高いのはネックですが、それ以外は非常に満足感の高い山でした。大阪からも十分日帰りで山行ができる山だと思います。(装備や計画をしっかりしなくても良いということではない)

今回は、登山をあまりしない人によく聞かれる質問「登山中は何を考えているのか?」について意識しながら山行しました。結果としては、次に足を置く場所のこと(特に下山時)や計画との時間のペース配分の誤差(特に先頭を歩く人)その結果としての休憩の時間や間隔(特にリーダー)、次に来るときはこうしようなどの未来や仮定のことを考えていることが分かりました。

今回の報告はこの辺にしときます。

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ベストショット(加工済み)