今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

研究室に行けなくなった を語る

私はM1の3月頭ごろから研究室に行けなくなり、M2の4〜7月ごろは行ったり行かなかったりを繰り返し、8月から11月は研究を進めたものの、12月から再び行けなくなり、最終的に1月最終週に修論を書いて、何とか修士を卒業した。

私はM1で修士の研究室に配属された。その頃はドクターコースの学生が3,4人おり、世にいう「ブラック研究室」でもなさそうだった。M1前期の講義で、毎週異なる企業の人が来て話をする講義があり、その中には博士号を取得している人も多かったから、「就職してもいずれ博士号を取るなら、今から博士課程に行ってもいいな」と感じ、M1の8月ごろに博士課程に進学することを決めた。

M1の間はかなり精力的に研究を進め、研究会や学会での発表も行った。私が研究を進める速度は、恐らく側から見ていても、かなり速かったようである。修士の間で研究が速いか否かは結局あまり重要ではないのだろうが、そのことは私が限界にぶつかる時期を早めたという点で、悪くはなかったのだろう。

私が研究室に行けなくなった直接の原因第1位は、結構頻繁に用いる測定のやり方が違っていることを、M1の2月ごろに博士課程の先輩に指摘されたことである。それくらいならよくある話だろうが、1月ごろには、使っていた測定装置(のようなもの。あえてぼやかす)の基準(みたいなもの)がズレていることが分かって、それまで半年超やってきた研究内容に対して、自分のなかに疑義が生じていた。そういうことが立て続けに起きたこと、そして私の指導教員が、割と新米だったこともあり、私が研究室のなかで、教育システムの狭間に落っこちている可能性があると感じられた。

私の研究は、5年以上前に研究室を卒業した人が扱っていたもの(教授が過去に取り組んでいたテーマでもある)を、さらに推し進めたものであったが、今から思うと研究目的がカチッと定まっていなかった。意味のある研究をやるためには、新規性や独自性が重要だと思うが、その研究をどういう方向に伸ばしていけば、独自性が出るのか、あまり分かっていなかった。そのことにはM1の夏くらいには気付いていて、しかし当時はそのことをそこまで深刻に疑問に思うことができなかった。M1の12月に研究会で発表をしたが、自分の研究の要約のような文章を作成する必要があった。そうして自分の研究を相対化する機会のおかげもあってか、自分の研究に対する不全感を認識し始めていた。

M1の1月ごろに、自分の指導教員にそのことを相談した。私と指導教員は、毎週私の研究の進捗を確認する定例ミーティングの時間を持っていたので、その時に行った。私は指導教員が人格的に悪い人だとは全く思わないが、指導教員にとっても、その相談内容は結構難しそうだった。今から思えば、私は教授にも同じ内容の相談に行くべきだったかもしれない。なぜなら、私の研究テーマに詳しいのは教授であって、私の指導教員はそのテーマについてあまり詳しくないからだ。

もちろん、私の指導教員は当時、従来の自身の専門に加えて、そちらの方向にも研究を伸ばそうと模索していた(ように見えた)し、意欲が無かったとか、放置されたとか、そういうことでは全く無かった。ただ、時期と巡り合わせの問題だったのだ。

私は7月末に、初めて自分の研究テーマを、研究目的から問い直し、文献と格闘し、主観的に自分が、これなら独自性があると言えると納得できる観点を見つけた。遅きに失したのかもしれない。当時は、もう博士課程に進学するのを止める決断をした後で、就職先も決まっていた。8月からは、その観点で自身の研究を捉え直し、実験を繰り返した。

ちょうど、指導教員が8月から3ヶ月くらい、海外の大学にvisitingしていたのも良かった。4月から7月くらいは、指導教員に怒られるのではないかと恐れて、実験に手が付かなかった。メンタルも不安定だったし、仕事(作業)としての能率も普段の1,2割くらいに落ちていた。そんな状態で研究が出来るはずがない。当時は「研究室に来れているだけで偉」かったのだ。

私と同じグループに所属している後輩たちもまた、指導教員との関係で、何らかの悩みを抱いていた。私のみるところ、その多くは、研究目的よりも先に実験手法や測定手法が先行してしまい、そのような手法では意味のある目的を達成できなかったり、得られた結果から目的を再定義しようとするため(それ自体はよくあることだが)、研究の方針がうまく定まらず、せっかく頑張った実験が徒労に終わってしまって、挫折感があるといったような内容だった。私は後輩に、「むしろ指導教員がいない今こそ、自分の頭で研究目的から詰めて自由に研究するチャンス」というような、当時まさに自分が自分の研究に対して思っていたことを話した。

私は12月に再び、研究室に行けなくなった。指導教員が帰ってきた11月に頑張り過ぎたのかもしれない。結局、図々しくも忘年会に顔を出した以外は1月末までゼミ以外は研究室に顔を出さず、研究室では死んだのか、卒業しないのか、などということが話題になっていたらしい。

指導教員も教授も、私に対して気を遣ってくれて、気遣うようなメールを送ってくれていた。私はその間、メールを全く見ていなかったので、次に研究室に行った時にそのメールを初めて確認するという始末だった。M2の4月か5月ごろに私は、指導教員からの「欠席するときは連絡してください」というような当たり前の内容のSlackを既読無視していたから、Slackではなくメールにしてくれたのかもしれない。