今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

まだ何者にでもなれそうな気がする

 最近私の中で、博士後期課程(以下、単に博士課程と呼ぶ)への進学が以前ほど自明でなくなってきたように感じられるので、その思考を言語化することで、理由を捉え、将来を展望してみようと思います。
 まず前提として私は、修士課程へ進学する際に、主に大学院入試の成績による事情で、4回生時の研究室とは異なる研究室(第二希望の研究室)に進学しました。その時点では博士課程への進学について、それほど意識していた訳ではありませんでした。ただ、M1に上がる瞬間の4月2日に阿蘇山へ登り、山中で何となく博士課程に行っても良いかもな、という啓示を受けました。配属後、研究室にはD1〜D3まで各学年1人ずつ博士課程の学生がおり、全員普通に元気そうだったので、この研究室で博士課程に進学しても、死ぬことは無さそうだなという印象を受けました。世の中には、ブラック過ぎて人が死ぬ大学や研究室があるという話も、何となく聞いたりしていましたので。
 何というか博士課程に行く、そして博士号を取るという行為は、手段やプロセスに据えるべきであって、それ自体を目的化すると続かないのでは、という気がします。人間は楽しいこと、本当に興味のあることに没頭するものです。私が最近個人的にやっていて楽しいことは、相変わらずBTCUSDのチャートを眺めること、投資家の書いた本やブログを読むこと、ネオ・プラグマティズムについて書かれた哲学者の本を読むこと、などです。私は、高1の秋冬に理系を選択してからここまで、理系の進路をずっと進んできました。ただ、文理選択は自明に理系だったわけではありません。私は、高校生1年生の時、定期テストで物理や数学で40点以下の赤点を何度も取っていた一方、現代社会だけは学年トップ級の成績を連発していました。そのため、同じ学年の人間からは完全に文系に進むものと思われていました。また、理系に進んでみると、驚きの声が何度も聞かれました。実際、私は文理選択に際して、当時的には結構悩んだ末に進路を決定したのです。理系に進んでおけば後から文転するのは比較的容易である、というのは理由の1つですが消極的理由です。最終的に私の判断に大きく影響したのは、小中学生の時に6年間通っていた塾の恩師にアドバイスを求めに行った時だったと思います。小中学生の時の私は、どの科目も比較的バランス良くできる方でしたが、それでも国語や英語よりは、数学や理科の方が明らかに良く出来るタイプでした。また、小学生高学年の時分は、教室でずっと宇宙の話をしているような宇宙オタクでした。そのため、その頃の私のことをよく知る恩師からは、君は理系だと思う、というようなことを言われ、私もそうかと思って、理系に進むことにしました。
 その後は、高校の時に通っていた塾での英語の指導が良く、高校を卒業する頃には、私の一番の得意科目は英語になっていました。物理や数学が苦手なのは、高校在学中にはほとんど改善しませんでした。
 思えば私は、それ以降今に至るまで、特に何も考えることなく進路選択してきたのかもしれません。それは、ある意味幸福でさえあります。私は、高校を卒業する瞬間に、京大工学部を受験して落ちていますが、いま思うと、どういう深い理由があったのかは思い出せません。それは、深い理由が無かったからなのでしょう。何となく京大を受け、理系なので何となく工学部、くらいの気持ちで京大工学部を受けていたと思います。
 大学に落ちたので浪人することになり、予備校に通いました。この2年目の時は、もう少し、別の選択肢、alternativeについて検討していた節があります。いまは、博士課程進学ではない別のalternativeを、色々と俎上に載せては悩み、否定したり再考したり、というプロセスをやっている訳ですが、私の人生における、alternative検討の端緒を、この2年目の時に見つけられる気がします。具体的には、夏の段階で東大模試を受けて、ほんの一瞬だけ東大に行こうかと思ったり、センター利用でダメ元で早稲田の政経に出してみたり、というような程度のことですが。
 結局、予備校に通っている間に物理が劇的に得意になったので、京大の物理工学科というところを受験し、合格しました。この時も、去年工学部を受けて落ちたので、工学部を受けるのだという理由以上のことは、特に考えていなかったと思います。また、物理工学科は入学後に2回生になってから5つのコースに分かれるのですが、その時まで詳細な進路選択の幅を、ある程度保留できるという気持ちもあったように思います。
 私は都会の比較的裕福な家に育ち(たぶん中流家庭の上の方くらい)、それなりに多い教育機会を与えられて育ったと思います。小学生くらいの時は、母親や父方の祖父からは、よくあることかもしれませんが、とりあえず勉強しておけば、後でなりたいと思った時にある程度なりたい職業に就くことができる、という感じのことを言われて育ちました。まあ、いきなり野球選手とかになったりは出来ないと思いますが、ある程度は正しいのだと思います。一方、父親からは、私が1回目に大学に落ちた後に、進路のビジョンが無い、というようなことを言われました。それは、ある意味当たり前です。目的は問わず、とりあえず勉強しておけば良い、という感じで育つと、ビジョンが無いのは当然です。
 こういうビジョン不在のまま、とりあえずここまで来てしまってから、いざ何か違うなとなって悩み始めているのが今なのかもしれない。そう考えると、これは幸福過ぎるが故の問題なのかもしれません。進路の可能性を保留し続けた結果、いよいよその戦略が限界にきていると言うこともできるかもしれません。
 私が最終的に博士課程への進学する旨を指導教員に伝えたのは、昨年の9月ごろだったと思います。これは時期としては結構早いらしいです。理系修士を卒業した後の極めて一般的な進路は、どこかの企業や官庁に就職することだと思います。いまはある程度相対化していますが、父親からは公務員にはなるなという教育(?)を受けて育ってきたので、この時点では官公庁は進路として検討していませんでした。企業への就職としては、まず第一に考えられるのは、大学院までで身につけた「それなりの専門性」を評価する企業への就職です。修士1回の授業では、この専攻を卒業した人間が大体就職しそうな企業から毎週1人ずつやってきて、企業紹介をする授業がありました。結論から言うと、私はあまりそれらの仕事が自分事として捉えられなかったのです。真剣な興味が湧かなかったとも言えます。その点で、博士課程進学への決断は、ある意味決断ではなく、保留だったのかもしれません。
 これらは消極的理由です。一方、博士課程進学を少なくとも一回は決断させた積極的理由は無かったのかというと、「真剣なその学問への興味」のような理由ではない理由はいくつか思い浮かびます。まず、博士号が欲しいということ、そして自分の名前が書かれた論文を出したいということです。いや、もしかするとその当時は「真剣なその学問への興味」、好奇心があったのかもしれない、もしそうだとすると、それは現時点では影を潜めている気がします。
 最近の私には、明らかに昔と比較して認識上のある変化を感じています。それは強いショックを受けたか、あるいは継続的に環境から影響を受けたか、そのどちらかというと後者かもしれません。昔は、ある程度「道から外れずに」「きちんとした社会人」にならなければ、強い言葉で言うと、飢え死にするのではないか、という感覚を持っていました。しかし最近ではむしろ、そうした定常状態であるよりも、動的にチャレンジしていることの方が恐らく重要で、かつ楽しく、そういう状態である限り、飢え死にはしないと思える程度には、社会のことを信頼できるようになってきたような気がします。もちろん、戦争のような特殊な状況が訪れれば、話は一筋縄ではいかないのかもしれませんが。
 でも、私の博士課程進学へのモチベーションはその程度のものだったような気がします。理系の博士号を持っていれば、恐らく徴兵されない。つまり死なない。ご飯に困ることもないかもしれない。いざとなれば、博士号を持っていれば、海外への脱出も容易かもしれない。そのような消極的な動機であれば、前提が変更されれば、動機が動機でなくなってしまうのかもしれません。
 自分の名前が書かれた論文を出したい、という理由についても検討します。最近の私の論文というものに対する認識は、明らかに昔とは変わってきました。とても簡単に言えば、その昔、論文とは、非常に価値のあるものだと思っていました。価値があるからこそ、自分の名前の書かれた論文を出したい、と思うのであって、それほど価値のないものでも論文になってしまう、ということを知って、ある意味幻滅してしまったのかもしれません。世の中には学振という制度があります。博士課程の学生が生活費と研究費をもらうために申請書を書いて応募する制度です。そこには業績欄というものがあり、学会発表をしたり論文を書いたりすると、それが業績になります。業績はあくまで客観的な指標に過ぎません。それが本質的に重要なのかは疑問です。学振(特にDC1という博士課程に進学する前に応募するもの)には、業績のある方が採択されやすいという嘘か本当か分からない噂がありますが、学振を通すために、「革新的に重要」と呼べるわけではない研究成果を作って発表するために、落ち着いて振り返る暇もないまま、実験するのを急き立てられるのに、少し疲れてしまいました。このことは、私にとって、研究を今後このまま続けていって、それが楽しいのかどうか、ということに疑問を抱かせるに至っています。
 何かをやっていて、感動できるか、心が動くか、ということは非常に重要だと思います。駿台予備校の石川正明先生は、最初の授業で「意味性、論理性、感動性」という象徴的な言葉を挙げていました。私はこの中で、感動性が特に重要だという気がしています。感動するから、心が動くから、それはどうなっているのか、という意味や仕組み、論理展開について興味が及ぶのです。今の研究室で研究を始めた当初は、実験試料を見て感動していました。なぜこんな色になるのだろう、と思っていました。そうした自発的な心の動きを取り戻さなければ、研究をやろうという気持ちに中々ならないような気がしてきました。あるいは、研究でなければ、そうした感動できることをしなければならないと思います。
 自分はまだ、非連続的な変化を恐れているのかもしれません。非連続的な変化には、適応への失敗というリスクが伴います。遷移的な変化であれば、そのリスクを最小化できます。そういう意味では、alternativeは、常に検討し、育てなければならないものです。それに対しては、一つのことに集中していないという批判があります。実際、こうした批判を受けてから調子が悪くなりました。
 そうしたもとで(急に日銀語調)、いつでも自立できるような、連続的に移行可能なalternativeを持っておくことが、私にとっては重要であるように思えます。人によって違うとは思います。しかし私にとっては、「初志貫徹」であるよりも、最新の状況に応じて思考を更新していく方が性に合っている、と思います。性に合っているということは、恐らく生存可能性が高い、とも思います。このあたりの考えが何由来なのかは分かりません。私の好きな人狼ゲームでは、盤面が更新される毎に認識も更新しなければなりませんし、私の好きな哲学であるプラグマティズムでは、そうした、状況に応じてより適切な認識に迫っていくという真理観が提唱されています。
 面白い、感動することと、お金がもらえることは、一致させることがかなり難しいのではないかと思います。一撃でそれを実現する方法も恐らくない。リスクの海には飛び込めず、「初志」も貫徹できない以上、alternativeを成長させながら、何者かに迫っていくしかないのでしょうか。私が最近「まだ何者にでもなれそうな気がする」とよく言っているのは、このような拡散した、目的の定まらない、ビジョンを問い直している自己についてのことなのです。早く哲人になり、未来を見通したい。