今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

旅に出るたびに強くなる

この記事は、Kumano dorm. 2nd Advent Calendar 2022の3日目の記事です。

 

私はこのAdvent Calendarで、知人の記事しか読んでいないし、出来事より内面が書かれている方が面白いと思ったので、想定読者は私のことを知っている人。内容は出来るだけ内面に近づけようと思います。でも出来事と内面を切り離すことは恐らくできないし、面白いのは具体的に書かれているからのような気もします。

 

2022年を振り返るのは難しいですね。2022年を振り返ろうとすると、もっと前の要素を引っ張ってくる必要があるから。端的に歴史の話をしましょうか。私が大学に入学したのは2019年4月で、初動の問題か、あるいは時間をかけても無理だったような気もしますが、集団に属すことに失敗しました。なので私が、この人は私の「大学の先輩」だと胸を張って(?)言える人は2人しかおらず、その2人に順番に師事する系譜の中で、ここが視界に入ってきたということになります。ただし、それより前から知っている同期との関係、とりわけ入寮する少し前における関係も、重要な要素ではあったと思います。

今年の入試の日か、その前後くらいに京大の正門を東一条通に向かって自転車で抜けようとした時、吉田寮の人が入寮パンフを渡してきました。その時の私は寮に入るということをそこまで真剣に検討していなかったので、半分冷やかしのような感じで、少し興味ある風を装って、吉田寮って住めるんですか、古い方の建物は云々というようなことを質問し、ちょっと話を聞いてみました。その間に熊野寮の人が入寮パンフを私の自転車の前かごに入れてきて、私は2つの寮の入寮パンフを手にすることになった訳です。その後家に帰って、主に吉田寮の入寮パンフを読み込むうちに、低い可能性として、寮に住む可能性について、自分の中で考え始めました。

私はその頃は実家に住んでいて、京大に通うならば片道1時間半以上かかる距離でした。1回生は毎日授業に出るために往復3時間していましたが、2020年にコロナの世界になって以後は、大学にあまり行かなくてよくなったので、京大の近くに住むことを考えなくなっていました。しかし、3回生後期が始まる頃から先程の「2人目の先輩」に師事するようになって、夜遅くまで大学の近くで活動してから実家に帰るのが苦痛になってきました。そこで京都における何らかの「拠点」の必要性を感じた状態で、3回生の春休みを迎えることになりました。

直接的な契機となったのは、3月上旬に家族でスキー旅行に行った時でした。母親が体力があまりなくて楽しくないので、スキーに行きたくないが、それを父親に伝えることはせず、私にだけその話をして、旅行中もそんなことを言っているので、私は嫌な気分になって、こんな家で暮らし続けたくないと思いました。4回生は研究室に配属されるので少なくとも平日は毎日大学に行かなければならないことが予想され、3回後期の経験から、実家と往復する生活はすぐ限界になることが明らかだったので、家を出る方法を考え始めました。

下宿、寮(熊野寮吉田寮)、その他(シェアハウス等)が選択肢として存在しました。下宿をする場合、ネックは月数万円の単位で家賃等が必要になることです。これを自分の労働のみから支出するのは不可能であるため、親と交渉する必要がありました。しかし、先述のような経緯や、自分が親と(特に父親と)何かを交渉しようとすると、大体不機嫌な顔になって甚だ面倒なことになることが今までの22年の経験で明らかだったので、それをしないということにしました。住めそうなシェアハウスも一瞬選択肢として存在しましたが、これも親に説明するのが甚だ面倒になりそうだったので、結果的には採用になりませんでした。

寮に住む場合、熊野寮吉田寮の2つが候補としてありました。最初検討したのは吉田寮の方です。入寮パンフを読み込んで、入寮後の生活をイメージしてみました。まず食堂が無いので自炊する必要があり、私は料理をせずに実家で育ったので自分にはこの難易度がまあまあ高く感じられました。加えて、入寮後しばらく(数ヶ月?)は自分の部屋がなく、広い空間で雑魚寝になるというようなことも書いてあり、これは研究室配属後の生活によってはリスクとなり得ると思いました。机で勉強するということが難しいのではないかと思ったからです。ただし、実際には研究室以外の場所で院試勉強するということはほとんどありませんでした。

入寮面接時に提出する書類を見てみると、親の年収みたいな数字を書く欄があり、これが決定的な要因となりました。私はこの実家から出るための一大事業を、親に何も言うことなく進めようとしていたので、親の年収を親に聞くことは、それに反することになります。適当な数字を書いても良かったのかもしれませんが、他にも何か書類を提出する必要があったのかもしれません。吉田寮にほぼ知り合いがいないこともあり、吉田寮は選択肢として一旦保留ということにしました。

そうするといよいよ、熊野寮しか無いわけです。熊野寮の入寮面接時に出す書類には、親の年収を書く欄がなく、これはいけると思いました。食堂があるので基本的には自炊しなくて良く、高校時代から知っている同期を始め、知り合いも5人くらいはいたので、入ってから人間関係で詰むということは無いようにも思いました。また、これはいずれの寮にも共通ですが、家賃が月数千円なので、自分の貯金だけで何とかなるということも、大きな要素でした。

一つ懸念していたのは、入寮してからどれくらい寮の「仕事」をしなければならないのか、ということでした。入寮後の私の姿しか知らないあなたからしたら、そんなことを考えていたのかと驚かれる人もいるかもわかりませんが、そんなことを考えていたのです。院試勉強という未知があり、院試に落ちると路頭に迷う(と思っていたし、今でもそう思っている)と思っていたので、勉強時間が確保できないと厳しいと思いました。そこで、スキー旅行から帰ってきたあと(3月11日か)に、寮に3年くらい住んでいる友人に、どれくらい仕事があるのか聞いたら、そいつも最近あまりやっていないし、どうとでもなるというような説明を受け、じゃあまあいけるかあという気持ちになって、入寮面接の書類を書き始めました。

3月12日は土曜日で、そして多分5日ある面接日程のうち最終日だったと思います。住民票のコピーか何かが要るので、コンビニでマイナンバーカードを使って(私の人生で唯一マイナンバーカードが役に立った瞬間)出力して、熊野寮に行きました。着いたのは昼過ぎくらいだったと思います。恐る恐る入って、書類やら何やらをリュックから出して、待っているとすぐ、食堂に通されました。面接官は2人で、最初にこの面接は落とす目的でやっているものではなく、寮に入るために必要な前提を確認するためにやっています、みたいなことを言われ少し安心した覚えがあります。寮とは自治とはみたいなことが書かれたプリントを、部分ごとに読んでは質問が無いか聞かれ、内容は理解できたと答えるみたいなことを何ラリーかやりました。私も薄々気づいていたのですが、面接官のうちの1人とは実は面識が、面識というより電話識があって、その話をされて少し驚きました。その内容について詳しく知りたい人は、私に直接聞いてください。

その日家に帰ったらたまたま父親と会って、珍しくどこに行っていたか聞かれたので「熊野寮」と答えましたが、「京大の寮?」と言われた以上は何かを聞かれることはありませんでした。何日後かにメールがあって、入寮できることが決まりました。親に熊野寮に住むと言ったのは、3月31日の夜で、明日から熊野寮に住むからもう晩ご飯は要らないと言ったら、反対されるかと思ったけど、驚かれはしましたが、母親は感慨深い感じでした。父親は引っ越しの荷物を運ぶ車を出そうかと言ってくれましたが、そんなにすぐに大量の荷物を持っていくつもりは無かったので、断りました。

 

2022年の話をするつもりでしたが、入寮までの話になってしまいました。3000字超えているので、ここで一旦終わりにしたいと思います。ここから先は、要素が多すぎて、簡単には書けないような気がします。ただし、この日を境に、私の大学生活は大きく変わることになります。多くの人との出会い、少ないが重要な人との別れ、私という人間の思考・行動に及ぶ大きな変化。旅に出て、帰ってくるたびに何かを得て、悟りを得て、強くなったと思える体験。個人ではなく、組織というものとの関わり。将来のことではなく、今この瞬間のことを考えて生き、行動すれば、将来もきっと大丈夫だという自信。そして、自分の行動が、選択が、思い立つことが、自分にもたらす結果と意味。こういうものは全て、入寮前の自分には無かったし、入寮後の自分にはあると、言えるもののような気がします。私の2022年は、そういう意味で、旅に出て強くなったんだと思えます。