我々は、とまで主語を一般化するつもりはないが、私は、物事を一般的に考えたり、思考を抽象化したり、極小の部分ではなく全体を見渡したり、そうした傾向へ、常に方向づけられているように感じる。
そうした方向へ身体が順応している時は、身体を上手く動かせているようにも感じ、そうした喜びは確かに存在する。
時代のせいかもしれない。イメージとしては、昔はもっと人々はゆったり暮らしていたのかもしれない。しかし、それはイメージ論でしかなく、昔の人々はもっと忙しく身体を動かしていたという印象もある。
年齢のせいかもしれない。子どもの頃はやることが無かったからか、もっとミクロな現象をよく観察していたと思う。手先の様子、ランドセルの縫い目、本の一字一字。移動範囲も移動速度も大きくなり、思考の範囲も広がった結果、人の顔をじっくり眺めたり、毎日少しずつ変わる街の様子に気付いたり、そうしたことに思いを馳せる時間が短くなっている。
ニック・ランドは加速主義を言ったから、時代のせいかもしれない。でも、私には時代と年齢を切り分けて考えることが出来ないから、その判断は難しい。
歴史的経緯のある今としての歴史的現在は重要だけれど、感情的には、そうした経緯の無い「今ここ」の経験の方が心地良い。
波打ち際を眺めたり、川の流れを眺めたりするのと同時に、砂浜の砂ひとつぶや、河岸の草一本にも注目したい。落ち着きなのかもしれない。
でも、こうした心の動きは、社会と完全に無縁ではないと感じる。以前にも述べたが、先行きが保障されない中で、時間選好は高くなる。戦争、激動の時代を迎えるなら、「今ここ」に集中するのは、むしろかなり合理的な行動だ。
加速する中を生きる。なにでもない足元のミクロな現実を注視する。鮮やかに切り替えたい。後者は、贅沢な時間かもしれない。贅沢な時間を求めていきたい。人間の幸せを浴びていたい。それは、結構ミクロ発だと思う。