今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

走った[吉野彰さん講演会の日の記録]

2020年1月28日、14時26分。僕は京都大学・吉田南構内を自転車で爆速飛ばしていた。本当にもういいの?と首をかしげる教授から許可をとり大して出来もしていないのに線形代数の期末試験をただ一人10分早く途中退室した僕は、14時39分出町柳発の特急淀屋橋行に間に合うため、百万遍門付近に自転車を止め、1月にしてはやけに気温が高い京都に走り出していた。

 

信号を守り駅に駆けていた僕の前方を、高校の同級生(なぜか大学では先輩だ)が歩いていた。彼もまた、数学の期末試験を早めに切り上げて途中退室し帰路についていたのだという。この日だけは彼が通学に使っている阪急京都線を使い目的地に向かう。京阪祇園四条駅から、阪急京都河原町駅までには乗り換え時間が6分しか無い。祇園四条で階段の目の前に着くドアの場所を教えてもらって、電車を待った。青特急が来た。

 

祇園四条に着く30秒前くらいに僕はドアの前に立った。彼はそんなに急がなくても間に合うよと僕を笑った。僕は彼に別れを告げ、一人祇園四条の駅を駆け上がった。コロナウイルスの流行に伴って中国政府が自国民の海外団体旅行を数日前から制限しているからか、気のせいかいつもより四条大橋は人が少なく感じられた。僕は時計を見たが、彼が言った通り時間には余裕があったので橋の上からは歩き始めた。

 

実際には結構使っているのかもしれないが、阪急京都線河原町から乗るのは随分と久しぶりに感じられた。いつぞやの京大入試の帰りに阪急で帰りながら読んだ柳田國男の『海上の道』は、まだ積読状態で自室の机の上にある。京阪と違い、優先座席ではない方の車両端はロングシートではないことに戸惑いながら車両とホームを行き来して前方に進む。どうしてもロングシートに座りたかった僕は、ある車両の優先座席の端に座ろうと後ろを向くと、そこには僕と同じ目的地に向かう大学の同級生がいた(彼は高校でも同級生だった)。

 

十三で降りるには前の方がいいだろうということで僕たちは、前から2両目の向かい合いの座席に横並びで座った。1両目は危ないのでやめようと僕が言ったのだった。普段は十三まで行かない彼は、この後にあるというバイトに備えてスーツ姿に上着を羽織っている。それだけ僕たちは、このために時間を急いでいた。

 

十三でドアが開き、僕は飛び出した。階段を駆け下り駆け上がり、改札を走り抜ける。後ろを見ると彼は、まだ結構後ろにいた。普段しないくらいの全力疾走で、僕は阪急の高架をくぐり人の多い十三の雑踏に飛び出す。信号を渡り新北野の交差点で少し信号を待った。彼は僕に追いついた。走りながら僕は彼に、まだ8分あるから大丈夫だと言った。これが十三ダッシュかと僕は思った。時計は15時32分を指していた。

 

体育館に15時40分着席完了(以後入場不可)というメールが前日に届いた僕は狼狽した。講演は、15時50分からだったはずだ。わずか10分の差でも、道を走り辿り着くためには大きな10分である。そのために僕は線形代数のテストを10分早く切り上げなくてはならなかった。大阪の公立高校で5本の指に入ると自称していた倫理の恩師が見えた。門をくぐった。

 

ダッシュで受付に走り、名前を告げ首から下げるカードと、パンフレットを貰った。数学や化学の先生がいた。英語の先生は、体育館の2階から僕らを見下ろしていた。靴を履き替え階段を上がる。もう、走る必要はなかった。我々は間に合ったのである。しかし僕は誰かに頰を思いっきり殴れと言ったり、抱擁しないと許されないと言われはしなかった。僕はただそこにいる人に自分が座るべき場所を聞いただけだった。

 

吉野彰さんは体育館後方から入ってきたので僕は一瞬、距離5mのところにまで接近したことになる。たかが線形代数の点が何点か失われたところで、母校初のノーベル賞受賞者のノーベルレクチャーを受ける方が遥かに有意義に違いない。会場の拍手はしばらく続いていた。講演の内容は、生い立ち、当時の課題、リチウムイオン電池の仕組み、それが創る未来の話に及んでいた。質疑応答で、論文を拝読したという3年生が専門的な内容について質問をしていた。

 

 

 

2030年には、AIが運転する無事故・無渋滞の電気自動車を、スマホで呼び出すシェアサービスが普及し、一人一人が車を持たないことで限られた資源が節約される社会が実現されるという。それらは供給が不安定にならざるを得ない自然エネルギーに支えられた社会において、時には充電を、時には放電を自動で行い電力を供給する蓄電インフラとしても機能する。経済性、利便性に加えて環境への影響という本来相入れない条件を技術によりバランスし、AIやIoTの活用により私たちが普通に生きているだけで便利な、持続可能なスマート社会が実現される。これが吉野氏が描いた近未来の社会の姿だった。吉野氏はさらに付け加える。2025大阪万博こそが、こうした未来の社会のあり方を世界にプレゼンするビッグチャンスである、と。1947年、まだ大阪万博がやってきていない自然が広がる吹田・千里山に生まれ育った吉野彰氏は、1000人を超える聴衆の前でこのように語ったのだった。