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吾輩の貧弱なる英語聴力の、例え僅かであったとしても、その向上を祈願して英語でpodcastを聴き始めて6日目、流し聞きでは意味がないと薄々感じながら今も英語を耳から入れながら、手は日本語を入力している。


しかしながら、この満員電車というシステムはその黒人奴隷船を彷彿とさせる人口密度から(筆者は黒人奴隷船を生身で見たことはない)凡そ前時代の遺物であると思うのだが、同様に前時代の遺物のような人々がなお今も満員電車を構成し、しかも恐らくその船を構成している一部であるという意識が乏しいために頻りに「自己」を主張して顧みないのは、見るに堪えないばかりか驚きですらある。
果たして自らの時代でコトを解決できなかった「一部」は、その責任をとって大人しく「一部」であるべきだという議論は通用するのだろうか


他者が世界をどのように捉えているのか、という問題は人々が長い間考え、そしてまた僕も意識的にか無意識的にか、あるいは潜在意識的にか、それを長く考え続けてきたように思われる。
それがトマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」のような形にまで行き着くと少しやり過ぎの感があるが、我々の日常生活のレベルでも、私と他者との間に世界認識についての狭からぬ間隙が存在するかもしれないということが私には次第に分かってきた

これはもしかすると実はそうではないのかもしれないが、最近分かったことは、人々はあまり日常で東西南北を意識して生活していないのではないかということだ

これは私が小学校低学年の頃の誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントに両親に「九州」や「中国・四国」といった自動車移動用の広域地図をねだっていた(結果的に日本全国をコンプリートした)などという特殊性を差し引いても、私がマジョリティではないということにはならないと私は思いたい問題である

一般に、私は(そして私の母も同じ種の人間である)初めて行く場所や(初めて降りた地下鉄の駅で地上に出た時や)不用意に手元の地形図をしばらく見ずに山道を適当に歩いた時などを除いては、基本的には今自分が東西南北の(あるいは北西や南東といった)方角のいずれに向かって進んでいるのかということを常に認識しているつもりである。そしてこれは、私にとってはごく普通のことであり、多くの人にとっても普通のことであると思っていた

私の世界認識と他者の世界認識との間にある程度大きな違いがあるということが明らかなったのは友人のA君(彼は、彼の自宅と彼が日常使用している鉄道駅との位置関係(例えば彼の自宅が路線の南側にあるといったこと)などを認識していなかったのである!)においてである。他にも、私と同じ高校に3年間通ったBさんは、高校のすぐそばを流れる一級河川(大きさはその地方随一といったところである)のどちらの方向が上流であるか、下流であるかということを認識していなかった

私はこのようないくつかの例に出会いながらも、しかしこのような例は特殊例であり、普通の人々はこのような世界認識ではあり得ないと考えていた(し、今もそう思いたい)

私の友人のCさんは、いわゆる方向音痴的な要素をその中に含んでいる人で、その人がある程度粗野な世界認識を有しているということは予め見当がついていたのだが(南北軸に対する「東」の偏角が+π/2であるか+3π/2であるかが分からないという程度の)その人と私との会話の内容を総合すると、私は「鳥瞰的な」視点でもって世界を見ており、その人は「平面的な」視座で見ているということらしい。

また友人のD君は、私が前述のA君の、彼が最寄り駅と彼の自宅との位置関係を把握していなかったことに驚いたというepisodeを共感を求めて話したところ、そのような事は普通認識しているものではないと前置きした上で「太陽が昇っている訳でもないのにどうしてそのようなことがわかるというのか」と述べた。なお彼はその時乗っていた列車が進行している方角を言い当てることができなかった。


さて、このような世界認識が一般的なものであるか否かは私には分からない。「平面的」な世界は「鳥瞰的」世界よりも、よりダイナミックに私に現れてくるに違いない。しかしながら、私はもはやそのような認知の仕方を獲得することは恐らくないし、また惜しくもあるがそれはしようとしてできるものでもないだろう。AndroidiOSで走ることはないのである