ああああああああああああああああ

自分でも具体的にどうすればよいのかということについてはあまり具体的なイメージを抱けているというわけではないばかりか、全くどうやればいいのか分からなくて困っているわけだが、社会的な役割関係の中における事務的な会話や、あるいはそうでなくても作業的な会話、友人恋人同士の中身のない肯定のやり取り、あるいはとりとめもなく流れるツイート等々といった会話形式とはまた別に、「対話」のようなものが必要だと漠然と思っている。それが一体どういうものになり得るのかということは、上記のように「〜のようなものではない」というような否定神学でしか語ることができていない。友人達と遊ぶことはとても素晴らしい。しかしながら、友人とカラオケや映画に行くその時々に「対話」のようなものが存在しているか、あるいはこれまで存在していたかということを考えると、少なくとも自分自身に関しては疑いがある。疑いしかない。疑いばかりが存在している。さて、我々は果たして「対話」をすることができるのだろうか。「対話」の実態を把握することなしにそれは不可能だが、しかし具体的な実践なしに具体的な方法、あるいは方法論のようなものを確立することもまた不可能に違いない。言葉遊びっぽいが、少なくとも当座は、対話のようなものが可能になるように対話のようなものを続けるしか道はないのだろう。対話〜!