今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

私の理科の先生と社会運動

政治や経済は生き方になるが、物理や化学は生き方にならないと言った事がある。よく考えてみれば、物理や化学でもいくらでも生き方になるなと、東工大の細野秀雄先生が書いた文章を読みながら思った。

思えば私が今までに影響を受けてきた理科の先生は、社会運動にも熱心な人が多かった。人格的には優しく思いやりの深い好好爺である。どちらも1950年代の生まれである。

1人目は、私の中学の理科の先生で、私が3年生に上がる際に別の学校に移動されたので、計2年間教わっていたことになる。大阪の松田幹雄先生である。松田幹雄先生は、Googleで調べて頂くとすぐに分かると思うが、卒業式における君が代起立斉唱に反対して処分を受け、大阪市と裁判を闘っている人である。また、その後もコロナ禍に入ってもう1件、別の裁判を闘っている。

このように書くと、松田先生(ミキオと呼ばれ愛されていた)は、随分と思想の強い人だなあと思われるかもしれない。今の私から考えると、これくらいのことで思想が強いなどと言っていたら何もできなくなるのだし、そもそも「思想が強い」からと言ってそれがなんだ、という感じでもあるが、私が中学を卒業した頃に、風の噂で松田先生が「そういう人」だったことを知った時には、私も「一般的な感覚」になっていた。というのも、2010年代前半頃の一般的なインターネットには「ネット右翼」的な言説がそこら中に転がっていて、私も中学の時はその影響を受け、そういう「左翼的なもの」への忌避感を自然に抱いていたからである。そしてその忌避感は今の日本社会にも広く共有されているのではないだろうか。

しかし、私が中学で授業を受けていた時に、松田先生から受けていた印象はそういうものではなかった。私は全教科の先生の中で松田先生と、私の担任を3年間持って頂いた社会科の先生が好きだったし、今からよく考えてみると、松田先生は自身の信条に則って授業はされていたとは思うが、公私を混同して、授業中に政治演説をぶったり、そういうことは全く無かった。それどころか、「自然は変化を嫌うんです」などと言って、中学生にも分かるように結構ハイレベルな理科を教えていたのではないかと思う。私は彼の理科の授業がとても面白かった。そういう理科の教師として素晴らしい人物であったことは述べておきたい。

中学1年の最初の授業では、授業中に私が当てられるか挙手をするかして普通の中学生では知らないようなことをバンバン答えていたので、周りの生徒が引いていたのを覚えている。ロケットとミサイルの違い(誘導装置が付いているかどうか)、出土した遺跡がどれくらい古いか調べるにはどうしたら良いか(放射性年代測定)、じゃあその放射性年代測定はどうやって行うんですか(そんなことまで知りません)、みたいな。私のような生徒にとっては、そういう対話的なスタイルの授業は多分向いていたんだと思う。

2年生の夏に宿泊研修に行った時は、消灯時刻を過ぎて皆歩き回っていたのだが、私だけ逃げ遅れて先生に捕まったことがあり、階段の踊り場に立たされていた時に偶然松田先生が通りかかり「どうしたんですか」と言われて事情を説明したら、それ以上は何も言われなかった。そういう優しさも持っている人であった。

当時は東日本大震災福島第一原発の事故から2,3年というタイミングだった。松田先生は原発の問題に特別深い関心を持っていたことは、授業の最初5分くらいを使って手製のプリントで原子炉の構造を説明したりというようなことをしていたことからも分かる。中学2年生の時には私も小出裕章のことを知っていたので、廊下でその話をしたら「なんで知ってるんですか」と驚かれて、ちょうどその前の日に松田先生が小出氏の講演を聞きにいっていたということもあった。

中学の夏休みには登校日があって、夏休み中に1回学校に登校して多目的室で戦争の話を聞く、というような日が設けられていた。そういう時は大体、松田先生がその担当をしていたように思う。私の学年の先生方の中では最も年長の方だったので、それ自体に違和感は無かった。また「平和を愛する」松田先生の性格からいっても、ごく自然に感じられた。そういう「平和教育」自体は、どの学校でも行われているものと思う。松田先生は君が代の教え方にも一家言ある人で、今はもう内容は忘れてしまったが、ただ歌うのではなくて、そこにどういう思いが込められているかを知ることが重要だ、というようなことをよく言っていたと思う。それはすごく至極真っ当なことだと思う。

数年前に久しぶりに思い出して、裁判に関係した記者会見の動画がYoutubeにあったので見た。知っている人もいるかもしれないが、大阪では橋下徹大阪市長になってから教育の改革が行われ、公務員である教師は卒業式の君が代斉唱では皆起立しなければならなくなった。松田先生は、自身の政治信条からこれに反対したという訳だ。だが話をよく聞いてみると、そもそも松田先生はそういう問題があるので、講堂で座っていなくても良いように、毎年「校長先生に卒業証書を渡す役」を買って出ていたり、なんとなくそういう折り合いをつけてやっている中で、最終的にどうしてもと言われやむを得ず処分にあったという話をされていた。そこにある松田先生像は、話ぶりも含め、私が授業を受けていた松田先生と何ら変わることはなかった。一般に思われるかもしれない「そういう人」という印象とは大きくかけ離れたものである。

このようなことはよくあると思う。また左翼の例を出して申し訳ないが、熊野寮に住んでいる左翼も、人間としては皆とてもいい奴ばかりだ。だからそこが問題なんだと言われたら、それはちょっと分からないが。

2人目は、駿台予備学校化学科の石川正明先生だが、もう結構書いたので今日はこれくらいにして、また次回にしたいと思う。