今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

これからの戦争と私

2024年の世界では、戦争が続いている。戦争の現場は、人権が抑圧、無視、毀損、破壊される現場である。日本もそう遠くない将来、いや、差し迫った直近に、戦争が起きる、戦争に巻き込まれる、政府が戦争を始める、戦争状態になる、気が付いたら戦争になっている、こうした状況になるという予感はあるし、こうした予感は日本社会において、ある程度共有されているような気がする。

自分の20代をどう生きるのか。戦時下は、非常時であるから、普通の、戦争が起きていない、平時と同じ生き方は出来ない。でも、出来るだけ平時の生き方を踏襲して、我々は戦時を生きなければならないのか?どうせ全て潰れて無くなってしまうという、当たるか当たらないか分からないが、そういう可能性がある状態で、普通の、真面目に生きていれば希望のある、そういう生き方をしなければならないのか?我々は、盲目的に、戦争が起きるかもしれないことに気付きながら、敢えてそれに目を瞑って、知らないふりをして生きなければならないのか?

もし戦争が起きて、今の社会で意味のあることが全て無意味になるような状況に突入する時、今の社会で、自分の人生のために頑張ることに、果たしてどれほどの意味があるのだろう。このような状況で、こうしたストレスから逃れる自然な道筋として、以下の2つが思い浮かぶ。

まずは、今の社会、この幸せな瞬間を噛み締める、という方法だ。どうせ全てが無意味になるのなら、今この瞬間に最も価値がある。刹那的に、今この瞬間を大事にする。

次は、もっと自暴自棄な方法だ。どうせ全てが無意味になるのなら、どうせ一回リセットされるなら、現世(今の社会)でどれだけリスクを取っても、リスクを取りすぎることはない。成功すれば破壊的に突き抜けるし、失敗してもリセットまで待てば良いだけ、というような、そういう選択をすることが、自然な選択として浮上する。

問題は、リセットが来ないかもしれないことだ。戦争はかなり来そうだけど、もしかしたら奇跡的に来ないかもしれない。そうすると、リセットは起こらない。取りすぎたリスクは、相応の報いとして自分の身に降りかかることになる。

戦争は来るかもしれないけど、もしかしたら社会を根底からひっくり返すような、そうした現れ方はしないかもしれない。中途半端な、どっちつかずな、あまり「面白くない」状態が続いて、それで終わるかもしれない。

いっそのこと、社会が完全に破壊されたら、「真面目に」平時の生き方をしなくても良いのに。退屈な、いつ壊れるとも分からない不安定な状態を続けなくてよいのに。でも、完全に破壊されたら、それはそれで選択の余地のない、限りなく生きにくい社会になるだろうな。

死にたくない。自分だけ生き残るみたいな発想にも意味はない。最後に逃げ場は残されていないはずだから。自由のために闘うのはかっこいい。国家権力と対峙するとアドレナリンが出る。国家と闘うと、国家に殺されるかもしれないけど。でも、国家と闘わなくても、国家に殺されるかもしれないよね。

研究室に行けなくなりつつ、仕事より生活の方が大事だと思いつつ、自分の進路を考えて悩みつつ、2024年の春。大きなことを成し遂げるか、普通の人生を生きるか。戦争というファクターは、重く、そこにある。