今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

新自由主義批判に対する違和感

新自由主義とは、「小さな政府」を極めて推進する立場である。通常の自由主義との違いは、この「極めて」という部分だと思う。(新)自由主義とは、政府による経済への介入を否定し、個人の責任で自由な競争を資本主義社会で行うことが、最も社会の発展に寄与するという立場である。

日本における新自由主義といえば、80年代の中曽根に始まり、90年代の一連の改革、そして2000年代初頭の小泉・竹中的な政策を指すことが多いように思う。

ところで、現在の日本は新自由主義的なのだろうか。「小さな政府」なのだろうか。

私には、そうは思えない。まだブラウザバックしないで欲しい。私は君と連帯できる部分があると信じる。

確かに、特にアカデミックに近い場所にいると、大学への運営費交付金がどんどん減らされていたり、政府は新自由主義に基づいて、これを実行しているように感じられる。アカデミックではない、社会の他の領域にいても、同様に感じられるのではないかと思う。

しかし、政府支出は年々増加している。つまり「小さな政府」どころか「大きな政府」に政府は向かっていることになる。特に安倍政権以降は、日銀が政府支出をファイナンスしている。その是非はともかく。

新自由主義を批判される向きにとっては、結構なことかもしれない。だが、そういう話ではない。

第一に、増えている政府支出の内訳は、社会保障である。年金・医療である。

高齢者ではない人々は、毎月年金保険料を払って、これを支えている。つまり、政府全体としては「大きな政府」に向かっているにも関わらず、増えている領域は「年金・医療」であるため、その恩恵に与らない人々にとっては、相対的に政府支出が減って、政府が新自由主義をやっているように感じられるという構造になっている。

第二に、新自由主義批判はこのような構造に即していない。政府が行っていることは全体として「大きな政府」である。それにも関わらず、新自由主義(小さな政府)批判(=大きな政府)をやっても、現状の体制に対する有効な批判にはなり得ない。働く世代、若者の負担を減らすためにはむしろ、社会保障に対する支出を減らさなければならない。現在の政府支出の大半は社会保障であるため、それは即ち「小さな政府」を主張することに繋がる。

それでも、新自由主義を礼賛することには違和感があるかもしれない。私も違和感がある。

何もそんなに強烈に一方の主張の極に近付いていく必要はないのではないか。極端は破綻する。

そこで私は、新自由主義ではなく単なる自由主義(=小さな政府)の立場に立つことを提案する。その上で、政府の社会保障支出を減らす立場(=小さな政府)にも立つ。

こうすることで、「新自由主義批判(=大きな政府)かつ、社会保障支出削減(=小さな政府)」という矛盾した立場に立つことを回避することができる。

 

私は、現在の日本政府が行っている政策は「大きな政府」だと思う。平時における社会保障支出の増大もさることながら、コロナ禍における現金給付や、補助金の乱発が、その傾向を一層に加速させていると思う。

なお、「大きな政府」を推し進めた先にあるのは「社会主義」である。旧ソ連の実験は失敗した。同じ失敗を、もう一度繰り返す必要はどこにもない。