今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

ネオ・プラグマティズム宣言 〜熊野寮から学生運動へ〜

熊野寮に何年も住んだ人間として、「自治寮の良さ・悪さ」、それらを包括した価値について、語らなければならないと思うようになってきた。自治寮については、世間に十分に理解されているとは言い難い。要因としては、いくつも考えられるだろうが、以下のような指摘もあった。

彼(彼女?)は、政治党派以外の人間が、大学自治や学生自治のコンセプトについて言語化しないことの問題性について述べている。学生自治寮における「自治」は、当然のことながら第一義的には、大学自治や学生自治の文脈の上にある。

私は政治党派(セクト)の人間が、寮自治論を語ることを何ら悪いこととは思わない。しかし、特定の政治思想をもつ人間たちだけが寮自治論を語り、そのほかの人間が沈黙しているような状況はまた、健全な状態だとは思えない。

熊野寮という自治寮に何年も住んだ人間として、そして多少とも寮運営の議論に関わり、セクトの活動家の主張も、ノンセクトの活動家の主張も、そして多くの「普通に大学で学んでいるだけの」学生の主張、これら全てに「バランス良く」関わった幸運な人間として、私は、次のような信念を持つに至った。

それは、寮運営の議論に関わる人間の念頭に、ネオ・プラグマティズムの考え方を置くべきだ、ということだ。
そう言われても、多くの人間には何のことかさっぱり分からないかもしれない。私は今、寮自治に関心があり、かつネオ・プラグマティズムに関心がある人間(ほぼ空集合では?)だけを想定読者に措定するという、この上ない過ちを犯したかもしれない。
しかも私は、大学で哲学を専門に勉強した人間でもない。しかし、この点に関しては、大学でマルクス主義を専門に勉強したわけではない政治党派の人間が、何となくそれっぽいことを言っている状況があるので、条件は対等だと思う。
また、哲学としてのマルクス主義は、歴史的にさまざまな批判を受けているが、運動・実践としてのマルクス主義運動には一定の力がある。ネオ・プラグマティズムもまた、哲学として歴史的にいろいろと批判されている。私の主張は、運動としての力の強さは、元になった理論の正しさとは実はあまり関係ないから、ネオ・プラグマティズムを理論として批判するのは自由だけど、運動・実践にはあまり影響しないかもしれないよ、ということだ。

加えて、ここが最も重要な部分だと思うが、ネオ・プラグマティズムが現在の哲学界において一定の影響力があるということは、少なくとも同時代に生きる我々にとっては、その主張がもっともらしく感じられる度合いが、結構高いのではないかということだ。ネオ・プラグマティズムの主張は、哲学を専門的にやっているわけではない多くの人間にとっても、それを「平易に」(ここで色々と捨象されるわけだが)説明すれば、結構潜在的に皆が考えていることと一致するものがあるのではないか、と思うのである。

それではそろそろ本題に入りたい。

私の理解では、ネオ・プラグマティズムの少なくとも実践哲学の部分からは、「異なる考え方を持つ人間同士の相互理解」を実現するためにはどのような「気持ち」を持てば良いのか、ということを学ぶことができると思う。そして、この点が自治寮の運営に関わる議論をする人間の、念頭に置くべきことだと私は考えるのである。ちなみに、ここで言うネオ・プラグマティズムの思想家とは、とりあえずローティやブランダムのことを想定している。

例えば、ローティは、『偶然性・アイロニー・連帯』という本を書いているが、ローティは(というよりプラグマティストたちは)、何か絶対的な真理があるという考え方を採用せず(マルクス主義と相性悪そう)、各人が色々な実践を行う中で、考え方がより正しいものに段々修正されていく、というような考え方をする。さらに、そのような考え方においては、自分が今たまたま持っている(「偶然性」)信念も、絶対的に正しい訳ではないから、間違っている可能性があり、自分が普段抱いている信念を疑いながら過ごすことが求められる(「アイロニー」)。そうした態度は、自分の考え方を絶対視しない点から、逆に、いま自分が持っている信念とはそぐわない信念を持っている相手の考え方が、実はより正しいものである可能性があるのではないか、という思考に可能性を拓く。つまり、このようなローティの論に乗っかれば、プラグマティズムの考え方を部分的にでも採用することで、自分とは前提が異なる相手のもつ信念を、ある種尊重するような態度を育むことができる。それは、異質な他者との間の相互理解への端緒を拓く点で、「分断」を回避し「連帯」を実現することに繋がる。

「連帯」の重要性は、少なくとも寮運営に主体的に関わっているセクトノンセクトを問わない活動家には言うまでもないはずである。
同時に、上記のような思考態度は、普段セクトの活動家に一方的に思想的に勧誘(オルグ)されて辟易としている「普通の学生」にとっても、その価値を理解できるはずである。

もう一つ、プラグマティズムを寮自治運営の議論の場に適用する上で示唆的な例を見てみよう。
たとえば、「渡り鳥のための湿地帯を保護する」という場合、そのような環境運動に参加する人々には、さまざまな理由があるだろう。人間中心主義者なら、狩猟を楽しむため、生命中心主義者なら、感覚を持つ個体を尊重することの重要性、等々。このように、何を重視するかという価値観や世界観のレベルで意見に深刻な対立がある場合、これらの人々は決して連帯し、団結することはできないのだろうか?
環境プラグマティストのノートンによれば、決してそんなことはない。具体的な実践では、こうした対立は解消できる。むしろ理論的な対立にこだわって何もしないより、具体的な政策において一致団結すべきであると説くのである。
プラグマティズムは一般に、それぞれ異なるとされる信念であっても、結果としてそれらが同じ行為を導くのであれば、その信念の差異を問うことには意味がないと考えるのである。

こうした議論は、寮自治運営の議論にも適用できるだろう。すなわち、寮を誰にとっても住みやすいものにするための施策で結果的に一致できるのであれば、それを支持する個々人が、どのような思想を持っていても、その差異を問うことは無意味であると、プラグマティズムは教えるのである。

これらは、(ネオ・)プラグマティズムの考え方を、寮自治運営の議論に参加する人が持つことの重要性を示す、一例に過ぎない。プラグマティズムを勉強すれば、その考え方が寮自治運営の議論に参加する上で重要だと理解できるはずだ。プラグマティズムという150年近いアメリカ哲学の伝統に立脚することで、我々は、自分たちの住んでいる場所を、自分たちでもっとより良いものにしていくこと(自治!)が必ず出来ると私は信じる。それは熊野寮のみならず、広く学生寮、学生・大学自治から、ひいては「この国の在り方」に至るまで、長く広い射程をもったものであるはずだ。


最後になるが、「ネオ・プラグマティズム学生運動」は、原理的に新しい。なぜなら、何をネオ・プラグマティズムの最初とするかはいろいろ説があるが、ローティ『哲学と自然の鏡』以降だと考えると、この本の出版は1979年であるからだ。世界的に学生運動が盛り上がったのは、1968年のことであり、ネオ・プラグマティズムは、いわば「全共闘以後」に登場してきた思想である。まだ、「ネオ・プラグマティズム学生運動」は十分に実践されていない。だからこそ、そこに可能性があると私は思う。

私の学生としての寿命は長くない。老兵は死なず、ただ消え去るのみなので、誰かやってみて欲しいという気持ちと、仲間が見つかるまでとりあえず私だけでもやってみようという気持ちと、半々くらいである。


参考文献:
岡本裕一朗『ネオ・プラグマティズムとは何か ポスト分析哲学の新展開』(ナカニシヤ出版,2012)
NHK「100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』」