今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

2つの研究室に属して

はじめに

2つの研究室に所属していると言うと、大体驚かれる。大学院生で、同時に2つの研究室に所属している人は、かなり珍しいからだ。なので、同時に2つの研究室に所属して、いま私の生活がどんな感じになっているのかを、書いてみようと思った。想定読者は、とりあえず私と普段たまに会う人、Twitter(X)のフォロワーくらいのイメージで、個人情報をいい感じにボカして書こうと思う。ちなみに、私のことを全く知らない人に簡単に自己紹介すると、私は京大の理系大学院生(修士課程1回生)である。

2つの研究室に所属するようになった経緯

1つ目の研究室に所属するようになった経緯について(それほど詳述しない)。まず、4回生の時とは異なる研究室への配属となった。ウチの専攻は、全研究室を一纏めにした大学院入試をやって、ペーパーテストの成績が高い順番に希望の研究室に配属されるという、多分少し珍しい仕組みを採用している。その結果、4回生の時にいた研究室へそのまま修士課程で残ることが出来ず、第2希望の研究室に配属された。それが今の1つ目の研究室である。

2つ目の研究室に所属するようになった経緯について。その前に、2つ目の研究室が、少し特殊であることについて話しておく必要があると思う。2つ目の研究室は、研究室と呼ぶしかないものには違いないが、恐らく一般的な研究室とはかなり様相が異なる。まず、そこに集う学生は、学年的には1回生から修士課程の学生まで多様であり、学部生がその中心を担っている。次に、特定の学部・学科・専攻等に所属している訳ではない。理・工・農の学生が多い。一般的な研究室と同じようなこととしては、教授がいること、大学の資金によって運営されていること、学生の居室や実験設備のある実験室をもっていること、などなど。

2つ目の研究室は、研究室全体として進めているプロジェクトの達成をその目標としている。全体がいくつかのチームに分かれており、そのチーム毎に部分化されたテーマに関連する問題解決を目指すという構成になっている。

ここからが経緯である。私はたまたま春頃に、2つ目の研究室がメンバーを募集しているのを見つけた。2つ目の研究室は、大きなテーマとしては、1つ目の研究室のテーマとは全然違うテーマであるが、分かれているチーム毎のテーマの中には、1つ目の研究室のテーマと分野的に近いものがあった。大きなテーマとしても非常に野心的で面白そうなものだったので、メンバー募集に応募した。書類提出や面接を経て、採用された。各段階で、志望動機を書いたり話したりする機会があり、そこでは、1つ目の研究室のテーマと分野的に近いテーマを扱うことになるので、同時並行で取り組むことで相乗効果で実力を高めていきたい、というような話をした。

どのような生活をしているか

1つ目の研究室は、いわゆる実験系の研究室である。そのため、午前中に大学に行って講義を受け(大学院生にもなって講義があるのは、院生からは大変不人気である)、午後からは実験、得られたデータの解析、報告資料の作成などを行なっている。ゼミや雑誌会も週に一度程度ある。普通の研究室である。帰りは日によるが、夕方から夜にかけて、である。コアタイムは一応あるが、あまり厳密に守られている雰囲気はない。実験系で、かつ独立したテーマが一人一人に与えられるタイプの研究室なので、基本的には研究室に来なければ研究が進まない。従って、大体毎日午前中に来て夕方から夜にかけて帰っている人が多い。土日は行かない。

そうすると、2つ目の研究室にはいつ行くのか、という話になる。
2つ目の研究室のメインは学部生であるが、学部生は講義期間はかなりの数の講義がある。最大週15コマ程度あるため、2つ目の研究室の主な活動時間帯は、5限後ということになる。2つ目の研究室のメインの構成単位は5人程度のチームであり、チーム毎に実験や開発、解析等を行なっている。そのため、私も所属するチームで決まった日に研究室に行き、実験や開発を行う。それは、平日の放課後または土日の午前中などが多い。得られたデータの解析や、報告会の資料作成は、平日の日中に1つ目の研究室の実験の合間を縫って行うか、土日に行うことが多い。報告会は大体週に一度程度あり、各チームが毎週、今週はこんな活動をしました、ということを報告する。

また、1つ目の研究室の時間拘束がそれほど強くないことを利用して、途中数時間離席して、2つ目の研究室で実験等を行い、また1つ目の研究室に帰ってくるということも、まま行なっている。2つの研究室間の物理的距離がそれほど遠くないが故になせる技である。ちなみに、2つ目の研究室ではRA・TA・OA的なものとして雇ってもらっていて、週に3,4日程度、それほど時間のかからない作業を朝晩に行なっている。

そんなこんなで家に帰ってくるのは、夜から深夜(日付は越えない)であり、結構ハードである。

以前と比べた生活・研究上の変化

2つの研究室に行くと、普通に1つの研究室に行く以上に自分に対して時間的・体力的負荷がかかるので、そのことに起因する変化がいくつかある。まずは、時間への意識と、単独の研究室できちんと成果を出さなければならないという意識である。

1つ目の研究室だけでもそう感じるのかもしれないが、2つの研究室に行くので、基本的には時間が足りないと感じることが多い。そのため、1つ目の研究室における研究の進め方を、時間の無駄なく複数の作業を行うように予定を設計するようになった。しかし、そうしたとしても、先に装置が使われていたり、実験が上手くいかないなど、予定に反する事象はたくさん起きるので、実際にどれだけ効率的かは分からない。

さらに、2つの研究室に行くという、普通の人ならあまりしないことを進んでわざわざやっているので、そのことを理由に、他方の研究室を疎かにできないという意識を持つようになった。2つ目の研究室を理由に1つ目の研究室を疎かにするのは、本業を疎かにしているので最も駄目だし、逆に1つ目の研究室を理由に2つ目の研究室を疎かにすることもまた、自分で志願してそうしているわけなので、実際どうであれ、疎かにしないという態度を持つことが重要だと思っている。

また、大きな変化として、住んでいる学生寮自治会活動(会議、イベント等)に参加する時間・体力を割くことが以前より難しくなってきたことが挙げられる。自治会活動では、イベント開催の段取りや会議の調整、日常の事務作業からハレの日の政治まで、1人で暮らしていたのでは中々難しいことが色々と体験でき、そこで得られる経験は人間の実力を飛躍的に高めることがある。私も、1年間自治会活動に関わって、そこで体得したものが無ければ、いま2つの研究室に行っても上手くいかなかっただろうと思っている。従って、自治会活動へのアクセスは多忙を極める中でも出来るだけ残しておきたいと考えている。

これから

ここまで読んでお前は就職活動はいつしているんだと思ったあなたは極めて正常な感覚の持ち主である。私は今の1つ目の研究室で博士後期課程に進学することを考えており、修士課程修了後を見据えた企業等への就職活動をほぼ何もしていない。そのため、基本的にはあと最低4年半以上は同じ場所に在籍することになる。2つ目の研究室も、特に大きな変化が起こらず、両立可能なものである限りは、続けていきたいと考えている。

今はまだ修士課程1回生の夏で、どちらの研究室でも入りたての新人でペーペーだが、そのうち後輩や新メンバーが入ってきて、私も教育的な立場に立たなければならなくなることは自明である。その時のために、両方の場所である程度の経験を積んでおきたいと思う。

私は多分、新しい環境に適応することは比較的得意で、かつ同じ経験ばかり繰り返していても仕方ないと考えている人間のような気がする。2つの研究室に同時に在籍するというチャレンジングな経験は、私の人間的性格に恐らくは端を発している。あと5年近く、同じ場所に在籍し続けるつもりなので、同じ景色ばかり見ていてツマラナイということの無いように、生きていきたいと思う。

感謝

ここまで書いて、この項目を書いておかない訳にはいかないと思って、用意した。

この記事を私の指導教員とかが見ることは無いが、私がこうして2つの研究室に所属して自由に経験を積み、実力を高めさせてもらっているのは、双方の研究室の教員をはじめとした研究室のメンバーの方々の理解あってのことである(1つ目の研究室の学生も皆、私が2つ目の研究室に行っていることを知っている)。1つ目の研究室で直接私を指導して下さっている先生などは、大変意欲的で素晴らしいと評価までしてくれている。さらに私の学資を出しているスポンサーへの感謝はしてもし過ぎることはない。

加えて、書いておかないと必ずしも自明なことではないこととして、私の生活を支える熊野寮の素晴らしさについて語っておきたい。4人部屋と多少汚い風呂場を我慢すれば月4300円で居住でき、授業のある期間は栄養満点で朝昼晩3食を約800円で食べられる寮食を提供している食堂があり、先述のように色々な経験を積んで実力を高めることもでき、さらに大量の友人までできる熊野寮は、まさに私の多忙な生活を最大限支える福利厚生施設として、極めて重要な役割を果たしている。こうした大学の学生自治寮は、一部左翼の拠点とされることもあって、国や大学からあまり快く思われておらず、全国的には廃止・閉鎖が進んでいるが、実際に居住してみると、そうした一筋縄ではいかない左翼と論戦を交えることで、高まる実力もあるのである。熊野寮は、私の研究の地盤として無くてはならないものであり、これくらいのことはここに書いておかなければならない。

以上で本記事を終わるが、これを読んだ人に何か影響が与えられれば、幸いである。

振り子の等時性

高林武彦の『熱学史<第2版>』を読んでいたら、ガリレイが振り子の等時性を見つけたということが書いてあった。そういえば何故振り子の等時性は成り立つんだったかと調べると、
振り子の等時性?
こちらのサイトに、運動方程式を立てて、sinθ=θとみなして解いて、出てきた解を再代入すれば良い、と書いてあって、そういえば昔も調べたことがあったなあ、と思い出した。
予備校か大学入学以来、私は科学史に少しは関心を持っているので、最近もルネで端山好和『自然科学の歴史』という文庫本(もとの出版は1998年)を見つけて読みながら、真空ポンプはトリチェリが17世紀中葉に作ったことに驚き、
天才UFO
こういうような面白い科学史のサイトを見つけた。
その中で、
天才UFO
こういうページがあって、ガリレイは、振り子の等時性を見つけるのに、当時はまだ時計が無かったがどうしたか?と書いてあって、その答えは「自身の脈拍か、歌を歌って測った」などと書いてあって、それは面白いのだが、一方、最初に言った高林武彦の『熱学史<第2版>』では、
ガリレイの友である医者のサンクトリウスはいち早くガリレイの発見した振子の等時性を脈拍の測定に, また空気寒暖計を体温測定に利用することを試みた. 」などと書いてあって、
これは時計が先か、脈拍が先か、という循環になっているなあ、と思って面白かった。
ところで、時計はまだ当時発明されていなかったのであろうか。
発明の年表 - Wikipedia
Wikipediaによると「振り子時計」を発明したのは、1657年、ホイヘンスであって、ガリレイはその頃にはもう亡くなっている。天体現象を利用して、もっと長い時間を測る時計はもっと前からあったであろうが、数秒を測る時計は、まだ無かったということだろう。

言及をやめて、勉強を始める

ヴィトゲンシュタインが言った「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉の意味を、僕は全然知らない。しかし、反射的に言葉を紡ぐのは、あまり格好良くないと思う。
思想史家の先崎彰容は、落合陽一との対談の中で、学者には「のれん」と「本店」とがある、と言った。それは自分が専門とする領域と、それによって獲得された視座からの現代の状況に対する批評、時事批評の2つがあるということだろう。
流れてくる時事の話題に、反射的に反応して言葉を紡いではいないか。自分の塔を建てなければ、その言葉はありふれたものとなり、やがて一貫性の失われた陳腐としか言えないものになるだろう。
だから今は、言及をするべき時ではない。勉強をするべき時だ。勉強して憑依したものを、言及することによって試す、というやり方なら「のれん」的だと思う。試すことで勉強したことへの理解は深まる。場合によっては、その限界を知ることもできるだろう。そうすれば、その限界を克服する新天地を見つける旅へと出ることもできるかもしれない。
一方、受動的に言及させられているだけでは、同じ平面をぐるぐると歩いて回るだけだ。同じ平面をぐるぐると歩いて回るだけなのは、あんまり知的好奇心とかも刺激されなさそうなので、面白くなさそうだ。やっぱり、勉強が先で言及が後だと思う。
この一節もまた、言及に他ならないので、僕はもう黙ろうと思う。

私の理科の先生と社会運動

政治や経済は生き方になるが、物理や化学は生き方にならないと言った事がある。よく考えてみれば、物理や化学でもいくらでも生き方になるなと、東工大の細野秀雄先生が書いた文章を読みながら思った。

思えば私が今までに影響を受けてきた理科の先生は、社会運動にも熱心な人が多かった。人格的には優しく思いやりの深い好好爺である。どちらも1950年代の生まれである。

1人目は、私の中学の理科の先生で、私が3年生に上がる際に別の学校に移動されたので、計2年間教わっていたことになる。大阪の松田幹雄先生である。松田幹雄先生は、Googleで調べて頂くとすぐに分かると思うが、卒業式における君が代起立斉唱に反対して処分を受け、大阪市と裁判を闘っている人である。また、その後もコロナ禍に入ってもう1件、別の裁判を闘っている。

このように書くと、松田先生(ミキオと呼ばれ愛されていた)は、随分と思想の強い人だなあと思われるかもしれない。今の私から考えると、これくらいのことで思想が強いなどと言っていたら何もできなくなるのだし、そもそも「思想が強い」からと言ってそれがなんだ、という感じでもあるが、私が中学を卒業した頃に、風の噂で松田先生が「そういう人」だったことを知った時には、私も「一般的な感覚」になっていた。というのも、2010年代前半頃の一般的なインターネットには「ネット右翼」的な言説がそこら中に転がっていて、私も中学の時はその影響を受け、そういう「左翼的なもの」への忌避感を自然に抱いていたからである。そしてその忌避感は今の日本社会にも広く共有されているのではないだろうか。

しかし、私が中学で授業を受けていた時に、松田先生から受けていた印象はそういうものではなかった。私は全教科の先生の中で松田先生と、私の担任を3年間持って頂いた社会科の先生が好きだったし、今からよく考えてみると、松田先生は自身の信条に則って授業はされていたとは思うが、公私を混同して、授業中に政治演説をぶったり、そういうことは全く無かった。それどころか、「自然は変化を嫌うんです」などと言って、中学生にも分かるように結構ハイレベルな理科を教えていたのではないかと思う。私は彼の理科の授業がとても面白かった。そういう理科の教師として素晴らしい人物であったことは述べておきたい。

中学1年の最初の授業では、授業中に私が当てられるか挙手をするかして普通の中学生では知らないようなことをバンバン答えていたので、周りの生徒が引いていたのを覚えている。ロケットとミサイルの違い(誘導装置が付いているかどうか)、出土した遺跡がどれくらい古いか調べるにはどうしたら良いか(放射性年代測定)、じゃあその放射性年代測定はどうやって行うんですか(そんなことまで知りません)、みたいな。私のような生徒にとっては、そういう対話的なスタイルの授業は多分向いていたんだと思う。

2年生の夏に宿泊研修に行った時は、消灯時刻を過ぎて皆歩き回っていたのだが、私だけ逃げ遅れて先生に捕まったことがあり、階段の踊り場に立たされていた時に偶然松田先生が通りかかり「どうしたんですか」と言われて事情を説明したら、それ以上は何も言われなかった。そういう優しさも持っている人であった。

当時は東日本大震災福島第一原発の事故から2,3年というタイミングだった。松田先生は原発の問題に特別深い関心を持っていたことは、授業の最初5分くらいを使って手製のプリントで原子炉の構造を説明したりというようなことをしていたことからも分かる。中学2年生の時には私も小出裕章のことを知っていたので、廊下でその話をしたら「なんで知ってるんですか」と驚かれて、ちょうどその前の日に松田先生が小出氏の講演を聞きにいっていたということもあった。

中学の夏休みには登校日があって、夏休み中に1回学校に登校して多目的室で戦争の話を聞く、というような日が設けられていた。そういう時は大体、松田先生がその担当をしていたように思う。私の学年の先生方の中では最も年長の方だったので、それ自体に違和感は無かった。また「平和を愛する」松田先生の性格からいっても、ごく自然に感じられた。そういう「平和教育」自体は、どの学校でも行われているものと思う。松田先生は君が代の教え方にも一家言ある人で、今はもう内容は忘れてしまったが、ただ歌うのではなくて、そこにどういう思いが込められているかを知ることが重要だ、というようなことをよく言っていたと思う。それはすごく至極真っ当なことだと思う。

数年前に久しぶりに思い出して、裁判に関係した記者会見の動画がYoutubeにあったので見た。知っている人もいるかもしれないが、大阪では橋下徹大阪市長になってから教育の改革が行われ、公務員である教師は卒業式の君が代斉唱では皆起立しなければならなくなった。松田先生は、自身の政治信条からこれに反対したという訳だ。だが話をよく聞いてみると、そもそも松田先生はそういう問題があるので、講堂で座っていなくても良いように、毎年「校長先生に卒業証書を渡す役」を買って出ていたり、なんとなくそういう折り合いをつけてやっている中で、最終的にどうしてもと言われやむを得ず処分にあったという話をされていた。そこにある松田先生像は、話ぶりも含め、私が授業を受けていた松田先生と何ら変わることはなかった。一般に思われるかもしれない「そういう人」という印象とは大きくかけ離れたものである。

このようなことはよくあると思う。また左翼の例を出して申し訳ないが、熊野寮に住んでいる左翼も、人間としては皆とてもいい奴ばかりだ。だからそこが問題なんだと言われたら、それはちょっと分からないが。

2人目は、駿台予備学校化学科の石川正明先生だが、もう結構書いたので今日はこれくらいにして、また次回にしたいと思う。

アマチュア無線と私

数日前、第三級アマチュア無線技士試験を受験し、直後に確認できる採点結果から恐らく合格しただろうと思っている。
今回受験したのは、現在私が参加している人工衛星開発のプロジェクトにおいて、地上の無線設備と衛星との間の通信のために必要となるから、取得が強く推奨されているためだ。

思い返せば5年前、私は高校卒業と同時に、アマチュア無線の資格を取ろうと思って、梅田の紀伊國屋で参考書を買っていた。結局大学に落ちていたためそれどころではなくなり、そのうちそんなことはすっかり忘れてしまって、約5年間実家の積み立てられた本たちの下に参考書は眠っていた。その参考書は一級用だったので、今回の受験には使わなかったが見つけた時「一級を取ろうと思っていたんだ」と自分でも驚いた。

そもそも私はなぜ、高校卒業と同時にアマチュア無線の資格を取ろうと思っていたのだろうか。現役時は電気電子工学科を第一志望にして京大工学部を受けていたことや、浪人して大学に入ってからも、一回生の夏休みに宇治にある電電系の研究室(転学科しなければ行けない。結局転学科はしなかったが)に研究室見学に行ったことなどが思い起こされる。その研究室は、宇宙太陽光発電の篠原研で、無線で宇宙の太陽光パネルから地上に電力を送信することをコンセプトにしている研究室だった。

つまり私は高校卒業から大学入学直後くらいの時期に、無線通信というものに大変興味を持っていたということは間違いない。その理由として、高校時代、そしてそれ以前の体験がきっかけになっているとは思う。

私は高校時代、中学時代の塾で配布されていたリスニング用の音源を聴くための10cm程度の大きさの機械で、FMラジオが聴けることを発見し、それを夜寝るときにイヤホンで聴いていた。私はそういう診断をもらったことはないが(なぜなら受診したこともないので)幼少期から夜寝るのが難しい人間で、高校時代には当時付き合っていた人に振られた経験が大変衝撃的で、多分その睡眠障害が悪化していた。普通にしていたら「なぜ自分は苦しんでいるのか」についての哲学的な思索が開始されてしまい、泣き疲れるまで寝ることができないので、寝るための方法を考える必要があった。

加えて、私の実家では夜寝る時にスマホをリビングに置いて寝なければならないルールだったので、スマホで音楽を聴いたりして寝ることもできなかった。そこで、先述の機械でFMラジオを聴いていた。もう関西では放送されていないと思うけど、野村訓市のTravelling without movingという日曜から月曜日に日が変わる瞬間くらいにやっていた番組や、そしてオードリーのオールナイトニッポンから受けた影響は大きいと思う。大学に入ってからも、ラジオではないがイヤホンを片耳だけ付けて、Youtubeで動画を流しながら寝るという、確立された類似のスタイルは大きくは変わらず寝ているので、それだけラジオというものから受けた影響は、自分にとって大きいと思う。

そして大阪のラジオ放送は基本的に生駒山の電波塔から発信されていると思うが、自分の部屋の中でもその10cmの機械の向きや場所によって、寝返りを打ったりすると聞こえ方が変わるというような経験を覚えている。

こういうようなことがあったので、私はその当時、無線通信というものに少し興味を持っていたのだと思う。

また、私の実家ではWi-Fiのパスワードを父親が管理しており、児童期からインターネットに触れる機会はあったものの、私が自由にWi-Fiにアクセスできる状態ではなかった。この点に不自由さを感じながら育ったことも、私の無線通信というものへの関心を育てる一要因になっていると思う。

私はいま、分野で言うと無線通信とは全然違う分野の学問を学び、研究をしている。全く関係ないかと言われると、でも同じ電気に関連することではある。そういう意味で、当時の私の意識と今の私の意識とは、地続きだなと思う。一貫性がある。一貫性とは、文脈のことだという文章を私は書いたことがあるので、もし興味があればブログを探して欲しい。

私がブログを始めたのは、ちょうどその頃、高校を卒業して浪人が始まった3月,4月くらいだ。その頃はまだ、先述の失恋事案からもう2年とかは経っていたけど、人間関係ということについて、自分は非常に哲学的な思索を自分の中で展開し育てていた時期であった。そのことについて書いた記事も残っているはずだ。もうその問題は、たまには苦しいけど、基本的には決着している。約1年半前に「決別」と呼べる「事件」があったので。私も、青年期から比べると、かなり大人になったなと思う。もう青年期ではない。自分の人生に、自分で責任を取るフェーズに入ってきている。モラトリアムは長いな、と思う。

私はいま、8月のアマチュア無線一級を受けようと思っている。結構何人も落ちていて、難しいらしい。でも、やる価値はありそうだ。

工学部縦コン(縦横コン)を開いた

2023年3月31日に、工学部縦横コンという(恐らく)本学初のイベントを開催したので、その報告記事を書こうと思います。京大工学部の縦コン文化を継承し、今後後輩たちがますます発展させてくれることを願って。

開催の背景・経緯

元々2019年に開かれた物工縦コンに当時1回生だった私が参加したことが直接のきっかけ。

dkrqr.hatenablog.com

これを主催したSKさんという人に誘われて、物工過去問サイトKU1025の運営を私が引き継いでやることになった。KU1025は半分過去問サイト・半分サークルといった感じで、投稿された過去問の更新をやりつつ、後継者を見つけるために、縦コンの主催をたまにやっていた。

2020年はコロナ禍だったので断念、2021年と2022年は、KU1025が運営する物理工学科のDiscordサーバーで4月1日とかに、物工縦コン(オンライン)を開催した。1回生向けの履修登録説明企画と、その後のコースごと座談会が主な企画。2年とも、100人近くの人間が参加して、結構盛況だったと記憶。

philosophiaichi.hatenadiary.jp

しかし、肝心の「KU1025の後継者を見つける」という目的は、オンラインで声だけという性質上難しく、達成できなかった。

そこで、いくつか発想を転換することにした。まず一つ目は、KU1025を物理工学科だけではなく、工学部全学科の過去問サイトにしてしまうことで、これにより物工250人から工学部1000人へと一学年あたりの後継者候補が拡大する。実際に、2022年7月から工学部過去問サイトとして運用を開始した。二つ目は、KU1025を「過去問サイト」ではなく「サークル」として位置付け、活動目的を「工学部生のための活動を行うこと」と再定義したこと。これにより、「過去問サイトがなぜか縦コンをやってる」から「縦コンやら過去問サイトやら色々やってる団体がある」へと、受け手に与える印象を工作することに成功した(はず)。

この辺りは、寮で2022年秋にやったドラッカー『マネジメント』の読書会に多くを負っている。「事業とは何か?」をKU1025に当てはめて考えた結果なのである。

そして、工学部新歓実という私が所属している別の団体と、KU1025の境界線をぼやけさせることで意図的にKU1025に関わる人間の数を増やし、2023年2月には新2回から新M2まで約15人が入っている謎のLINEグループが作成できた。組織化である。

工学部縦コンをやるという発想は、色んな学科の縦コンをやりたいという要請から生まれたものだ。何にせよ、縦コンを対面でやるためのノウハウを持っていないので(参加したことはあるが)、個別に物工や工化の対面縦コンをいきなり開くのは、少しハードルが高かった。そこで、まず工学部縦コンという全学科参加できる縦コンを共同で開き、対面縦コンのノウハウを一回積むことで、それらをやりやすくした。今回、その目的は達成されたので、2023年一学期にかけて、各学科の縦コンを乱発したいと考えている。(工学部縦コンを準備して開く過程で、情報と電電の縦コンをやりたいという人が見つかった)

こういうわけで、3月に工学部縦コンをやりたいなあということを漠然と考えていたら、研究室が忙しく、気が付いたら3月10日を過ぎていた。ちょうどその頃、TwitterでKU1025とか縦コンのことをぐだぐだ言っていたら、過去2年の物工縦コン(オンライン)に参加してくれていた後輩からDiscordのDMが来て、その場のノリで工学部縦コンをやることになった。

数日後に新歓実の会議を開いたら、前日に周知したのにzoomで10人くらい参加してくれて、そこで参加申し込みGoogleフォームの作成や、Twitterで宣伝する用のポスターの作成などの仕事を割り振った。

ポスター

準備

日時

その会議で、運営に参加できる人が多い日を3月下旬から選んで3月31日にやることになった。2019年の物工縦コンのイメージで、18時〜21時とし、会場は準備のため17時半から押さえた。

募集

募集は私のTwitter、KU1025のTwitterで流したが反応が悪く、物工Discordにも流した。その後、寮の後輩や例のLINEグループ参加者各位に頼んで、新2・新3回生の世代の学科LINEには、建築と情報以外の全学科に流してもらった。結果的には、参加者の半分:10人くらいは一回生だった。KU1025のTwitterで新入生をフォローしまくったので、1回生はTwitter経由で知った人が多い気がする。上回生は学科LINE経由が多そう。

呟いてる新入生も何人かいた。

KU1025にもデカデカと載せて周知したが、あまり意味はなかった気がする。

しかし、副産物として、KU1025は年間20万アクセスされているWebサイトで、そのアクセスは夏と冬の期末試験前に集中するため、この時期を狙って宣伝を打てれば、かなりの参加者が見込めるのではないかという気付きを得た。長期休暇入った直後にやるのは全然アリな気がする。

場所

場所は2019年物工縦コンと同じ場所で良いのではないかと思ったが、調べたら使用できない感じになっていた。最初インスタベースで探していたけど、どれもうーんという感じだったので、スペースマーケットでここ 🌸SAKURA CAFE🌸 | スペースマーケット を予約した。左京区いきいきなども調べたが、予約が埋まっていることが多かった。時期の問題と、調べ始めるのが遅いせい。

食べ物・飲み物

食べ物と飲み物はコンパ運営に慣れていそうな共同主催者に全投げした。私は分からないので。当日の朝10時に布団の上でゴロゴロしていたら電話がかかってきて、打ち合わせをした。

16時くらいまでゴロゴロしながら「あーどうしよ」ってなってたらしい。マクドナルドは安くて腹が膨れるので良いという話があり、私は2019年の物工縦コンのイメージでピザがあれば何とかなると思っていたので、ピザを取ることに(もちろん全部寺さんに任せた)。50%引きのクーポンを発見して「これだ!」となったらしい。

参加者20人に対して、

ハンバーガー、チキンクリスプ各13個ずつ

・ドミノピザLサイズ×3、その後×4を途中で追加注文

・2Lのドリンク7本(ソフトドリンク)

・2000円分くらいのお菓子

でほぼ全員お腹いっぱいになっていた。お菓子は最後めっちゃ余っていたので、適当に持って帰ってもらった。

その他

ネームプレートを前日の夜にAmazonで注文し、16時半くらいに届いたので危なかった。

www.amazon.co.jp

前回2019年の縦コンで主催者が写真を撮り忘れ、結構後悔していたので、今回はかなり撮影した。最後に集合写真も撮った。撮影した写真は後日Googleドライブに入れて、参加申し込み時に登録してもらったメールアドレスへBCCで一斉送信した。

当日の様子

集合写真

当日は17時半に会場入りした。18時過ぎから人が増え始め、受付や集金をしていたら20分くらい経ってしまった。結果的に買い出しの到着が18時40分ごろだったので、18時半くらいから一人ずつ自己紹介をして時間を潰した。自己紹介終わったくらいに食べ物と飲み物が到着したので、良かった。ドライバーに店の駐車スペースに車を停めれることを伝え忘れてしまった。

前日にリマインドメールを送った時に、自転車のことは敢えて何も書かなかったのだが、結局自転車で来た人は6人くらいだったので、問題は起きなかった。

20時40分くらいに締めの挨拶をして集合写真を撮り、掃除をして、21時には完全に撤収をした。

まとめ・収支

それなりにグダグダだったという説はあるが、どの机も割と盛り上がっていて、自己紹介以外に企画は用意していなかったが、上手く回っていた。KU1025の後継者も見つかったので、やはり縦コンは対面に限るなあという気持ちに。

最後に収支

品目 収入 支出 備考
参加費 43500   集めてる途中から2500の倍数にならなくなってたので、誰か払い間違えてる
場所代   12705 スペースマーケット
マクドナルド   4550  
ピザ   12588 ドミノピザ
お菓子   2089 業務スーパー
ジュース   988 業務スーパー
紙コップ等   1123 業務スーパー
駐車場   500 三井のリパーク
ガソリン代相当   142  
ネームプレート   1776 Amazon
合計 43500 36481 利益出てる。参加費2000円でも良かった。買い出し行ってくれた人の参加費はタダにしました

参加してくれた人、当日運営ムーブしてくれた人、ありがとうございました。

参加者による感想

Ex帰寮、新しい書き方。

この記事は、熊野寮エクストリーム帰寮Advent Calendar 2022の25日目の記事です。

どんな準備をして、どこに降ろされて、どんな風に帰って来たか。このような書き方のエクストリーム帰寮の記事は、もうたくさん書かれている。それに、多くの場合あまり面白くもならない。Ex帰寮アドカレの新しい書き方を試そう。

情報は端的に。私はEx帰寮の運営2年目で、ドライバーはやっていない。寮祭期間までにHTMLを書いたり、受付本部で書類チェックしたり、ドライバーに払うガソリン代の領収書をまとめたりするのが仕事。寮祭が終わった次の週に、友人に頼んで35km先に飛ばしてもらった。信楽高原の山の上。紆余曲折あり52kmも歩いて帰ってきた。

図1 畑のしだれ桜

図2 距離測βに手入力

Ex帰寮の話はこれくらいにして。え?って?新しい書き方だよ。

 

2022年。(もう「今年」ではなくなってしまった。)

8月末に東北大の大学院入試を受けた後、仙台から小樽を経由して船で京都に帰る約2週間の旅行をやった。途中、全国学寮交流会に合流したりもしたけど、基本的に1人の旅だった。3月に家族でスキーに来た蔵王に、登ってみた。尾根の途中で、初老くらいの女性と目が合い、休憩することにした。会話をして、この辺の人だと知った。大学生だという話をすると、孫がいてどこかの医学部に行っていると教えてくれた。自分は京大生で東北大の大学院を受けに来たついでに登っているという話をすると、なんというか可愛らしい驚き方をされた。最後に、食べ切れないからと言って、携帯用の羊羹を貰った。私は上り、彼女は下りだったので、ありがとうと言って別れた。

帰り道、熊野岳の山頂で休憩していると、もしかして先程もお会いした人ですよねと声を掛けられた。重いからと言って、500mLの水のペットボトルを渡してくれた。

 

函館で夕食を食べようと思って、海鮮丼屋に並んだ。入ったら、一人席は無いから少し待ってと言われた。待ってると、後ろに並んできた人がいて、今いっぱいで入れないですよ。でもここくらいしか無いから(待たないと仕方ないですよね)と話をした。1人で無理なら2人で行けばどうだという話になり、扉を開けたが、一人とかは関係なく、そもそも席が空いていないという話だった。戦後東京青山生まれの男性で、7月に亡くなった祖父の弟(大叔父)に少し似ていた。映像関係の仕事とか色々やったけど、今はもう退職して1人で旅行するのが趣味という。コロナ前は東欧とか、海外旅行も結構行ったようで、落ち着いた優しい雰囲気から経済的にも余裕がありそうに感じられた。50年代の東京は、警官が道に立っていて、歩道を右側通行していないと怒られたという。「最近の若い人」へのアンテナも、結構しっかりしていると感じた。嫌な気分はしなかった。昔はガキ大将がいて、あれは今思うと中々良くできた仕組みで、いじめも無かったという。全然生きた時代が違う人の話を聞くのは楽しい。京大の寮に住んでる話や、コロナの話もした。リーダーシップの話もした。2人とも1500円くらいの(異なる)海鮮丼のメニューを食べた。最後、お会計で100円だけ多く払ってもらった。2人とも店の近くの(異なる)ホテルを取っていたけど、私は函館山にロープウェイで行きたかったので、ありがとうと言ってそこで別れた。

 

信楽高原から降りてきて、滋賀県道16号を歩いていると、黒い車が減速して横に止まった。夜中3時ごろ。30代くらいの優しそうなお兄さんが一人で運転していた。ほぼ歩道も無いような道を歩いている異常者が気になったのだろう。信楽高原から降りてきて、京大の寮に帰る途中だと言った。この先広いところまで乗せてあげようかと言われたが、大変ありがたいけど企画の趣旨に反するからと言って、断った。全然怪しそうな人では無かった。

大津を何時間も歩いて、逢坂越えを下ったあたりで、歩けなくなった。昼の12時ごろ。顔を上げると井筒八ツ橋本舗があり「休憩できる」と書いてあった。最初はちょっと癪だったけど、ありがたく休憩することにした。入ってベンチに荷物を置いて、休憩していると、よほどしんどそうに見えたのか、お店の人がお茶菓子を出してくれた。申し訳ないと思ったけど先に、信楽高原から降りてきて京都の家に帰る途中で「財布は持っていない」と嘘をついた。食べておいて何だが、買わされるかもしれないと思ったから。お茶をおかわりして、足を揉んだりしていると、歩けそうな気がしてきた。別のお客さんが入ってきた隙に、お店を出た。店から15mくらい歩いたところで後ろから声がして振り向くと、さっきのお店の人がビニール袋を持って、走ってきた。試食用で、賞味期限が近く、どうせ廃棄するからと言いくるめられ、もらってしまった。チョコレートのやつはカロリーがあるから食べると良いと言ってもらった。結局道中では食べず、寮に着いてから皆で食べたが、絶対に来年の寮祭企画「井筒八ツ橋と連帯」をやり遂げようと思った。お店の人の名前も覚えているけど、もしかしたら職務違反かもしれないので、ここには書きません。

こんなに貰って良いんですか

旅に出ると、強くなる。それは、初めての土地。見知らぬ、時には名前も分からない、人との関わり。自分で決めて、選択して、行動して、そこで人の優しさに触れる。何があっても大丈夫だという自信が生まれる。旅は、具体的な旅。人生という旅。旅に出るたびに強くなった。帰って来るたびに成長した。そう繰り返し思えた、2022年でした。