今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

5月にヒートテックを着ると暑い


AIスピーカーにルンバを起動させたりルンバを起動させたりするCMが流れている

 

不可算名詞の見分け方!スタディサプリでは3つ!まずは1つ目!切っっても使える!bookは切ったら読めなくなるけど、paperは切っっても使える!

 

じゃあfurnitureはどうすんねん。切っても使えるんか。そもそも判定基準が3つもある時点で詰め切れてないやん。
そんな何でもかんでもAIスピーカーに頼んでたらアレクサ依存症なってまうで。ルンバ起動させたりルンバ起動させたりするくらいならええかもしれへんけど、お母さんの誕生日に歌うHappy Birthdayをアレクサに歌わせるのは違うやろ。違うだろ〜!
それで喜んでるお母さんも、というかCM自体がちょっと不気味。不気味の谷現象

 


小学校2年か3年かそのくらいの頃に、毎週家の近所に図書を貸し出すcarがやって来ていて、僕はお母さんが毎週10冊くらい借りてくる本の中から面白そうなのを選んで読んでいた。何しろ途中までしか読んでいなくても1週間で強制的に回収されてしまうので、1度読み始めた本は最後まで読み切らねばならなかった。そんな本の中から今でもその内容を少し覚えている本があるので、覚えている間に中身を書いておきたい。2冊あります。本の題名は分かりません。インターネット(そろそろこれとスマートフォンをカッコつけて、カッコついてないし「文明の利器」などと称するのはやめにしないか)で調べれば本の題名くらい分かるだろうという意見もあるかもしれませんが、本の内容から検索をかけて題名に到達するのはかなりしんどいし、僕としては当時の印象を不可侵の思い出にしておきたいので、題名を調べるということは致しません。が、僕が読書に疎いだけで本当はかなり有名なタイトルだったりするかもしれませんが、知っているという人があっても特段教えて頂かなくて構いません
まず1冊目、1冊目は少年が洗濯機に入る話。洗濯機から出てくる話だったかもしれない。妹と遊んでいたか何かで洗濯機に入ったか、もしくは何か特殊な石けんを使ったか何かでとにかく下水道に流されてしまう。下水道に流されると全身が泡だらけ、というよりもむしろ全身が泡になってしまって、いかだに乗って下水道を流される。その後紆余曲折があって(内容をあまり覚えていない時に使用される表現)数匹の動物たちと湖のほとりに何か建造物を建設する。その動物のメンバー(なんでメンバーメンバー言うんですかね)には鳥の類のものがいて(フクロウかな…?)本文の心内表現で「彼がいなかったら(その何らかの建造物)を作るのに途方もない時間がかかっただろう」的な記述があった気がする。そしてその湖や建造物とどういう関係があるのかは覚えていないが、ラスボス的な奴を倒す、あるいは何かしらの目的を達成して、元の世界に戻るために怪しげな婆さんと交渉する。この婆さんは実は下水道に入った後の紆余曲折の中で最初に少年と会っていて、かなりのキーパーソンだった気がする。などと、読者が知らない重要な情報を伏線もなくいきなり「実はこうだったんですよ!」みたいに放出するのは良くない。ネット上の低俗な官能小説などで多く用いられる手法であるが、読者を白けさせるだけである。逆にプロの小説家は途中で思いついた重大な設定を、最初の方に戻って撒き直しているのではないか。村上春樹は世界の小説の地脈に突き動かされるか命令されるかして身体からその地脈のエネルギーを放出するのが執筆活動だみたいなことを自著で書いていたが、通常の小説家の場合はそうではないかと思う。話が逸れたが、この後少年は魔法使い的な怪しげな婆さんとの交渉に成功し、少年は無事洗濯機から出てくることになる。
2冊目は魔女の話である。魔女の話であるが、今日はもう遅いしこれ以上文章が長くなるのは嫌なのでまたの機会に書くこととする。それでは

 

OK.Google 週末の山中湖の天気は?

無意味に思えるmumbo-jumbo

この文章の結論は本ページ最下部に掲示してありますので、本文の大部分を読み飛ばして頂いたてもお楽しみ頂けます

 

※本文は失敗しました。安っぽい科学論的な文体を揶揄する感じで書こうとしたら本当に安っぽい文章になってしまいました!

 

あなたはくだものを食べたことがありますか?と聞かれたら、何をバカなことを、というのが通常の反応でしょう。くだものなんか誰もが日常的に食べているではないか、と。恐らく、皆さんは今までの人生において何らかのくだものを食べる機会を持ったことがあることとは思います。しかしながら、あなたが食べたとするその「くだものであるとあなたが思っているもの」は本当に「くだもの」だったのでしょうか?
言い換えれば、あなたは本当に「くだもの」を食べたと言えるのか。あなたが食べたのは本当に「くだもの」だったのか?等々、矢継ぎ早に質問を受けると「くだもの」に対するゲシュタルト崩壊と押し売り詐欺を受けている時のような心理状態とによって、あなたはあなたの食べた「くだもの」に対する懐疑を、全面的にということはないにせよ、少なくとも少しは持ち始めているはずです。アダムとイブの神話から、ニュートンの重力発見、現在時価総額世界一の企業の名前に至るまで、人類は歴史的に「くだもの」と深く関わってきました。人々にとって「くだもの」は、ごく身近なものであった、または現在もそうであるわけです。ですが、むしろごく身近なものであった、またはそうであるがゆえに、私たちは「くだものとは何か」というその核心となる根源の部分については深く知ろうとしてこなかった、そういう面があるのかもしれません。普段身近によく知っていると思っていることを普段とは異なる見方から多面的に捉え直し、物事の新たな一面を探求するというのは、とても重要な知的活動の一つです。「くだもの」とは何かということについての認識なしに「くだもの」を食べたか否かということの判断はできません。あなたが「くだもの」を食べたかどうかを知るために「くだもの」とは何か、その定義を確認しておく必要があるでしょう。手元の電子辞書で「くだもの」と検索すると「草木の果実で食用になるもの」と出てきました。とすると、あなたが本当に「くだもの」を食べたのかどうなのかという問題は、あなたが「草木の果実で食用になるもの」を食べたのかどうなのかという問題に置き換わります。ですが置き換えたはいいものの、これでは当初より事の本質がどこか捉えどころのないものになってしまった感が否めません。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょうか。すなわち、あなたは確かに「くだもの」を食べた。それは確かです。しかしながら、あなたが食べた「くだもの」は、その実、個別具体的な「りんご」であったり「みかん」であったりしたのではないでしょうか。つまりあなたは決して「くだもの」を口にしたわけではなく、「りんご」や「みかん」を口にしたに過ぎないということです。あなたが食べたのは具体的な食物である「ぶどう」であったり「ドラゴンフルーツ」であったりした、この認識は非常に重要です。つまり、あなたが「くだもの」を食べることは不可能であるということです。

 


君は決して、くだものを食べることはできない!

 


このように考えてくると私たちは、一見身近に思える「くだもの」と私たちの間に、決して超えることのできない間隙を目撃したということになるのではないでしょうか。つまり、我々は「くだもの」を食べることはできません。我々が食べることができるのは、個々の「りんご」であったり「みかん」であったり、ということです。あなたは「くだもの」を決して食べることはできません。ですが、これはあなただけではなく私たち人類がその特質上、逃れることができない宿命なのです。

 さて、それでは我々が「くだもの」を食べることができる日は到来するのでしょうか。到来するとすればそれはいつなのか、そんなことをふと考えて思索の中で時を過ごしてみるのもたまにはよいかもしれませんねフフッ

 

 

文責:食後にいちごを食べながら フィロソフィア愛知

 

 

 

結論:「くだもの」は個々の「りんご」などの抽象に過ぎないので食べることはできない

テレビは「ネットの声」を報道するのをやめろ

 

じゃあそんなんやったら最初からネット見るわ。

 

現場のテレビ局員が一体どういう了見で(例えば街角に取材に行く時間がないとか、あるいは純粋にネット上の情報をお茶の間に紹介したいだとか)インターネット上の情報を、トピックとなっている話題に対して添えているのかということは分からないが、テレビ局のお偉いさんサイドとしては自局の朝のニュース番組(まともにニュースだけを放送しているテレビ局は残念ながらほぼ皆無だとは思うが)や昼のワイドショーで「ネットの声」と称して出どころ不明のネット掲示板の書き込みやTwitter上のツイートなどが、これまでテレビという放送媒体が得意とするところであったいわゆる「街の声」に代わって紹介されている(こともある)現状に対して、何らの違和感も抱かないものなのだろうか。一視聴者の見解としては、テレビや新聞にはインターネットが提供しない(あるいはできない)情報こそを、視聴者に提供して欲しいと思うのである。現在、テレビ番組が行なっている「ネットの声」を紹介する行為は、テレビ局自らが、自らを質の低いネット上のまとめサイト以下のものになり下げているということに他ならない。ましてや、テレビや新聞といった、あえて言わせてもらうと「旧媒体」になりつつある媒体が、新たに登場したインターネットに情報収集を頼るという行為それ自体が、テレビ・新聞自らが不要だということを宣言しているようなものではないか。しかも、そのような局面で紹介される「ネットの声」は本来あるべき文脈から切り離されて紹介されることがほぼ常であるため、視聴者側としても白々しさを感じざるを得ない。

 

つまるところ、取材をサボっているだけじゃないのか。テレビ局がテレビ局としてこれからも存在していきたいとテレビ局自身が真剣に考えているというのであれば、このような「街角の声」に代わって放送されていると捉えられても仕方がない「ネット上の声」を放送するのは即刻中止すべきであると私は考える。

byネット上の声

僕は朝っぱらからアイスコーヒーを飲みたい

 

意識。意識を持って走る。走っているということを意識する。自分は今走っているということを強烈に意識することではじめて、自分の脚が地面を蹴る力が自分の脚が地面を蹴ることだけに使われるようになる気がしている。

 

意識不明とは区別したいが、長い、折り返し点が見えない直線を走っていると、自分が今走っているということを強烈に意識し続けていたとしても、気がつくと無意識に走っているということがある。意識のバックグラウンドで物事を処理できる人間の脳は確かに素晴らしいが、自分は今走っているのだということを強烈に意識し続けていないと、自分の脚が地面を蹴る力が自分の脚が地面を蹴ることだけに正しく使われない。正しく使われないと、どうしても走るのは遅くなる。

 

「常に意識を持って物事に取り組む」と言うときの「常に」は、何となくスタートからゴールまで漠然とずっと、という惰性になってしまいそうな気がする。「常に」意識して走る、「常に」走っていることを意識しながらスタートからゴールまで走ることはとても難しい。「常に」は漠然とずっと、ではなくスタートからゴールまでを極限まで細分化したその一瞬一瞬、微小時間Δtで意識を持ち、その微小時間Δtをスタートからゴールまで全部足したもの。そうしないと自分の走りはどこか惰性的になってしまう。人間は〜と主語を大きくするつもりはないが、少なくとも自分はそんなに強くない

部分積分をする度にHIKAKINの罪は重い

 

脳は1秒間に数千回発光しているみたいな記事を読んでから、毎日明滅が発生するわけではないが、眠る時に前頭葉の方からまぶたの裏が数秒ごとに周期的に明滅して照らされる感覚に集中すると、すぐに眠ることができるようになった。目を閉じている時に明かりで照らされるとまぶたの裏がぼんやりと赤くなる感覚が、目の上の手前奥から伝わる。

 
我が人生の歴史は睡眠との闘争の歴史でもあった。テレビの音声と笑い声がふすま1枚挟んだリビングから発生する、そんな環境で6才頃まで寝ていたせいで、いわゆる「寝つき」が限りなく悪くなったと思っている。自分の部屋が与えられてからは寝落ちするまでひたすらDSし、ごく稀に親に見つかりDSが没収されるというルーティーンを繰り返した小学生時代。基本的に、寝れるか寝れないかは運だと思っていて、それはまるで入試対策を何もせずにひたすら模試を受け続ける受験生のようであった。目を瞑るとすぐに眠れるという人が理解できない。意味不明。そもそもストレスを溜めやすく泣き疲れるまで寝ることができない体質もよくない。数年前からは深夜にラジオを聴き始め、聴き疲れて寝落ちすることで寝ていた。段々と自分の疲れ度合いが把握できるようになってきて、寝落ちする寸前にイヤホンを耳から外せるようになった。寝る寸前には呼吸が自然と寝ている時の呼吸のようになることに気付いたのである。

 


最近は早朝にランニングをしなければならないので早く時間通りに寝なければならない。この「まぶた明滅法」に暫くは頼って睡眠と闘っていくことになりそうである

『スクラップ・アンド・ビルド』を読むまで

 

ルンバが部屋の入り口の段差と柱の間で無限回小刻みに反復運動をしている。しばらくするとAIがこれは無意味だと判断を下すのだろうか、やや向きを変えるがまた無限回の反復運動に入る。

 

 

恐らく多くの日本国民と同じく、私が羽田圭介という名前を知ったのは数年前の芥川賞受賞というニュースだった。ピースの又吉直樹『火花』が完全に話題を奪い去り、もう一人の受賞者である羽田圭介が取り上げられることは全くないかと思いきや、以後少しずつメディアへの露出が増え、屈強な黒人(だったはず)が出題する簡単な英語の質問に答える企画で「next question please!」と挑発を見せた時から、この羽田圭介という男に私は興味を持ち始めた。

 

無限回の反復運動を繰り返した結果、ルンバは充電が尽き、充電ゾーンまで持っていかれる運びとなった。

 

昨年太川アンド蛭子から田中要次羽田圭介にキャストが変更された3泊4日路線バスだけで時刻表と戦いながらゴールを目指すやたらと金のかかる貴族の遊び(貴族は路線バスには乗らないが)みたいな番組・バス旅Zでは、日没後疲れ果てて亀岡から先に進むのを渋る田中要次と女性ゲストに「バスがあるのに進まない論理は弱い」と発言したりホテルを取るのに「芥川賞作家の羽田圭介と申しますけれども」と電話したりする奔放さに惹かれる。田中要次と横に並ぶと田中要次よりも身長が高く調べると180cmあり、確か競輪の実業団選手を目指していたらしい。凡そこの作家離れした異色の人物は、ここ数年間参考書以外にまともに本を読まない私をして芥川賞受賞作『スクラップ・アンド・ビルド』の購入決断に至らしめた。

MARUZENジュンク堂梅田本店で、参考書と地図のフロアでしかエスカレーターを降りたことがない私は「現代作家男性」「現代作家女性」といった括りとは独立して「村上春樹」の4文字がスペースを占有していることなど知る由も無かった。表紙が見えるように配列されている例の又吉直樹『火花』はすぐに発見できたが、羽田圭介は表紙が見えるように配列されてはいなかった。「現代作家男性」のコーナーを奥まで行って戻り、図書館などでもそうであるように作家が50音順に並べられているということに気付くまでに数分を要する。自分でお金を出して小説を買うという経験が皆無なので仕方ないのである。考えてみたら当たり前かもしれないが、何も羽田圭介は『スクラップ・アンド・ビルド』だけを書いているわけではない。手元の『スクラップ・アンド・ビルド』の奥付けを見るとデビュー作に『黒冷水』とある。しかしながら、この時まで羽田圭介という作家が『スクラップ・アンド・ビルド』以外に小説を書いているという意識はなかった。『スクラップ・アンド・ビルド』の左右数冊に渡り並べられる羽田圭介。先ほどの奥付けを見るとデビューは2003年とある。しかしながら、私にとっての羽田圭介誕生はほんの数年前である。

『スクラップ・アンド・ビルド』

私はこの語句の列を音読したいだけではないのか。

『スクラップ・アンド・ビルド』

そろそろこの語句列もユーザ辞書に登録されるだろう。

『スクラップ・アンド・ビルド』

私は『スクラップ・アンド・ビルド』を手に取り数ページめくって読む。意外と薄い。そしてページの上下の空白が広く、これなら気軽に読めそうな気がしてくる。

『スクラップ・アンド・ビルド』

私は『スクラップ・アンド・ビルド』を閉じ裏を向け値段を確認する。1200円くらい。5000円の図書カードも残り2000円少しある。

『スクラップ・アンド・ビルド』

紀伊国屋の店員は図書カードを出してもポイントカードのポイントを消費するか尋ねるが、ジュンク堂では無理なのかもしれない。

『スクラップ・アンド・ビルド』

最近他の人のブログを読んでいて以前から感じていたブログの終わり方の爽やかな文体の謎が解けた。則ち、まず記事終了前2つ目の文章で未来志向「だろう」で文を閉じる。そしてその後最終文は動詞の現在形(例えば「明日は明日の風が吹く」といったような)で結ぶ。この辺りは過去形を使いすぎたり、はたまた現在形を使いすぎたりすることで文章の流れが単調になるため、両者をパラグラフの流れの中で適度に配置することにも通じているのかもしれない。ともあれ、これで漸く『スクラップ・アンド・ビルド』を読むことができる

さて、あなたは一体何冊『スクラップ・アンド・ビルド』以外の羽田圭介の小説を挙げることができるだろうか。

明日は明日の風が吹く

 

 

終わり

朝走る

おはようございます

朝のジョギングを始めて3週間と少しですが、

・私のような犬大嫌い人間にとっては歩道で犬を散歩させているババアは歩道でありながら車並みの空間を占有しているのであるということなど考えもせず歩道で犬を散歩させている、酷い時には2人がかりでジジイと道のど真ん中で井戸端会議に興じて道を寸断しているババア

・年々年々年々巨大な鳥のように手を翼として広げ威嚇してもなお生命の危機を感じるばかりか飛ぶという鳥に与えられた特権すら行使せずに能天気に道を寸断してパンくずを食い続けるハトの集団

という二大障壁に阻まれてフラストレーションが溜まります

終わった後に朝からシャワーを浴びれるのが救いです