今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

睡眠 宗教体験

自分の力、意思によるのではない無意識の作用によって眠りに落ち、また大いに自分が関係しているとはいえ自分の意思によるものではないと感じられる夢というのを見る睡眠という現象 毎日人間について回るこの現象は、宗教体験の感がある 

おやすみなさい

一億人強迫観念と消費税

今日は一億人という強迫観念と消費税について考えてみたいと思います。

一億人というのは日本の人口問題について語られる時によく登場する言葉です。また一億総〇〇というように何か日本社会全体を指して政策であったり状態であったりを表すのに使われることもあります。世は少子高齢化、人口減少が叫ばれて久しいですが、ここで諦めと言われればそうかもしれませんが、あえて悲観的でない楽観的な風にこの現象を考えてみます。どうにも1億人(現在は1億2000万人ですか、僕が幼い頃は1億3000万人と言っていたのが、ある時を境に1億2000万人と言うようになった気がします)という人口を維持できなければ、これから日本は経済発展できない、没落した国になるという一種の強迫観念のようなものが議論全体にある気がします。江戸時代は3000万人でしたし、終戦の1945年は7000万人でした。当時の世界全体の人口(1950年で25億人)に対する比率が大きかっただけという指摘もあるかもしれませんが、英米と一戦を交えた先進国でした。2020年現在ではざっくりドイツ8000万人、イギリスとフランスが6500万人です。アメリカ3億人や中国インドの10億人超のイメージがあるので1億人でも少ないと無意識に思っている節がありますが、多いです。インドや中国のように人口が多いと市場規模も大きいので経済発展に適していると一見思いますが全員が先進国のような購買力を持ってはいないということにも注意する必要があるでしょう。適正人口という考え方があって、日本の場合どのくらいが適正人口なのかは一概には言えませんが、自国で養える5000万人と貿易で+3000万人支えるくらいがちょうどいいのではないかと誰かが言っています。人口が増えすぎると東京一極集中のように人が住みにくくなって生活環境がよくなくなるので人口が減るそうです。とすれば、これから人口がどんどん減っていき1億人を切るかもしれませんし、市場が縮小してGDPも減るかもしれません。ですが、何の根拠もないですが8000万人くらいまで減った段階で昔(将来から見た現在のこと)よりは日本が住みやすくなって出生率が2近くにまで戻り、それで人口がそれくらいで維持されるかもしれません。少なくとも、数百年後に日本から人がいなくなるということは可能性としてはだいぶ低いのではないかと思います。つまり、これはかなり楽観的な見方ですが、移民なんか入れなくても(既に技能実習生として入っているという議論もありますが)時間が少子高齢化、人口減少、東京一極集中といった現在問題とされている問題を、問題が問題でなくなるという形で解決するかもしれないということを僕は最近考えています。もちろん、これは楽観的な見方であって各論として人口減少と少子高齢の人口構造がもたらすだろう様々な問題に対処することは考えなくてはいけません。日本人は割と楽観的かもしれませんが、日本人は悲観的というイメージもあるので、あえて楽観的に考えてみるのも少なくとも個人レベルではアリなのかなとも思います。また、社会保障費の増大に伴って発生している財政健全化問題も、もしそれを本気で解消しようと思うならの話ですが、将来的に人口が8000万人程度にまで減って出生率が再び上がり始めた段階で(数十年後か100年後くらい?)解決するのではないかと思います。超長期的スパンでですがね。

消費税についてですが、これはかなり平等な税金だと思います。僕が不勉強なだけで今後また考えが変わるかもしれませんが、低所得者ほど収入に占める生活費の割合が大きいので、弱者に優しくない逆進性があると言われます。しかし、高所得者だって生活費以外にお金を使わないのかと言えばそうではないだろうし、例えば1億円のヨットを買う人がいれば10%なら1000万円の消費税がかかります。不況の時に弱者にとって見える形で税負担が大きいというのは、不況の時だけ下げれば解決しそうな気がします。でもここまでの議論で僕の不勉強のせいで破綻していそうな箇所が何箇所もありそうなので、怖いのでもうやめておこうと思います。適当に書いてる文章だから許されると思いますが、あまり専門外(そもそもまだ何者でもない)というかよく知らないことについて書くのは危険な感じがしますね。

大阪都構想ひとりごと

あと2ヶ月も経てば大阪都構想住民投票の結果は出ていることと思います。物心ついた頃には維新の会が政治をやっていたような気がするし、二重行政時代の大阪府市下で有権者として生活したことがないので、二重行政の重みというか、その存在をリアルに体感してはいないので、実感としてはよく分かりません。しかし、ずっと大阪では二重行政というものが特に顕著に行われていてその解消を望んでいる人々の問題意識があるということは理解できます。そこで、前回、今回と維新が出しているいわゆる都構想のパッケージですが、理念としては理解できます。大阪府大阪市がそれぞれ独自に広域行政をやっていたら無駄が大きいので、大阪市の方の広域行政権限と予算を府に移管して、身近な住民サービスを提供するために大阪市をいくつかの自治体に分割する。理念としては、理解できますし、今は大阪府知事大阪市長が同じような政治的考えを持っているので特に摩擦なく政治が行われているという、いわゆるバーチャル都構想状態であるということも理解できます。そして、未来永劫このような状態が続く訳ではなく、今後また異なる政治的グループがそれぞれトップに立てば元通りになってしまう可能性があるということも理解できます。僕は少し問題があるのではないかと思うのは、2本柱(二重行政の解消、身近な住民サービスの実現)のうちの後者、身近な住民サービスの実現という方の具体的な制度設計のことです。あまり詳しくは知りませんが、報道や記事を見ている感じだと、問題があるような気がします。というのは、大阪市が廃止され4つの特別区が設置された場合には、基本的には4つの特別区が行政事務を行うが、かなり膨大な量の事務をどうやら旧大阪市の区域を担当する一部事務組合というものが行うことになっているらしいからです。これは、4つに分けると効率化されて身近な住民サービスが実現されるという思想とやや相容れない部分があると思います。一部事務組合というものを新たに作って、それが旧大阪市の区域に相当する部分の結構な量の事務を行うというなら、それは旧大阪市の規模で行政事務を行なった方が効率的であるということの何よりの証左だからです。少なくとも僕は現段階ではそう感じています。今後、考えが変わるかもしれませんが。この点(身近な住民サービスの実現)に関しても、理念自体はよく理解できます。ただ、その理念を実現するための具体的な制度案がいささかあまり詰められていない、完全なものあるいは少なくともベターなものではないと感じてしまいます。これは僕が不勉強だからそう感じてしまうのかもしれませんが、その場合でも僕のような人間を減らすために維新の会は何か説明をした方がいいと思います。そこで、以上のような僕の考えを要約すると大体こんな感じかと思います。大阪市の広域行政権限と予算を府に移管していわゆる二重行政を解消するための制度構築には賛成、またより身近な住民サービスを実現するために何らかの制度的変更を考えることには賛成だが、現状住民投票にかけられてもしそれが通った時に実現されるような一部事務組合が大幅に絡むような制度にはやや疑問を持っており、大阪市を一度廃止するとそれを元に戻す方法はどこにも規定が無いらしいので、総合的には反対でもう少し考えて欲しいという感じです。維新は住民サービスは下がらないと言っていますし、公明党も住民サービスが下がらないという約束を維新から取り付けた上で賛成しているらしいので、まあ実際には大阪の選挙区で維新を敵に回すと怖いからという実際的な事情もありそうですが、住民サービスは下がらないのかもしれませんが、最近ポツポツと都構想の制度設計は住民サービスを削って何億円浮かすだとかいうことを前提に書かれているという報道や記事も何個か見ていますので、判断は難しいと思っています。

慶應義塾大学の坂井豊貴先生が、著書『「決め方」の経済学』で書いていたことから少し着想を得て喋ります。現時点で僕のような考えを持っている人がいる場合は、2本柱がパッケージされている投票ではなく、それぞれに賛成・反対の意思表示ができた方がより正確に意思表示ができます。例えば、広域行政権限の移管による二重行政の解消には賛成、大阪市廃止とそれに伴う特別区設置には反対、といった風に。いま本が手元に無いので記憶を辿って書きますが、確か先生は2015年の大阪都構想を分析した上で、そのような投票の方法について考察していたような気がします。2つとも賛成でないと賛成に投票しにくいよりは、片方でも賛成ならそれに関しては賛成票を投じることができた方が、より建設的です。与党や野党(でも維新は国会ではユ党と呼ばれていますが)に関わらず大阪市大阪府の政治家の人はあまり頭が良くないかもしれませんが、政策の中身のことだけではなくて、このような決め方のことにも少しは脳のリソースを割いて欲しいなと思います。まあこれにも政治的な思惑が絡むので難しいのかもしれませんね。

巨勢徳太と伊藤博文

いま梅原猛の『隠された十字架』を読んでいてふと思い浮かんだことがあったので、それの備忘録である。

筆者によると、巨勢徳太という人物は、山背大兄皇子(聖徳太子の息子)殺害の現地部隊長であったという。”彼はこの乱による手腕が買われたのか、後に孝徳朝の重臣となり、” “大化改新の中心勢力がかつぎあげた二人の大臣” “が死んだ後に、大伴馬飼(長徳)と共に、それぞれ左大臣、右大臣になっている。”という。私は日本古代史に全然詳しくないので、この記述の専門的な整合性ということに関しては全く知らない。しかし、梅原猛氏も『隠された十字架』も賛否はありつつも高い評価を受けているので、信用する。

思い浮かんだことというのは、明治維新の際に孝明天皇を暗殺したとされる伊藤博文のことである。もっとも、孝明天皇の死因が暗殺であったか天然痘であったかは分からない。この説は、私はノンフィクション作家の鬼塚英昭氏が言っていたのを聞いて、それを採用している。

いずれも暗殺されたのは前の政治権力側の人間であり、そして暗殺した当の人間は暗殺後に出世している。この共通点が非常に面白いと思ったのである。日本国は話し合いで平和的に建国されたと竹田恒泰氏などは言うが、見えない暗殺の歴史がずっと続いているのではないか。

今は戦争は挟んだけれども明治維新からまだ150年と少ししか経っていないし、基本的には明治維新後の体制のまま来ているので、その秩序をひっくり返すような説は発表されないかもしれない。ちょうど藤原不比等が編纂させた(と梅原猛は言う)古事記日本書紀に不自然なまでに法隆寺に関する記述が無いように、沈黙を貫くことで事実は隠蔽されているかもしれない。

明治維新も1000年くらい経てば謎は解明されるだろうか?しかし、1000年前に編纂された神話と、日本古代の謎はいまだ解明されたとは言い難いのではないか。結局、天皇による権力者の末裔がずっと続いているということかもしれない。

梅原説によると、法隆寺はこのように暗殺された聖徳太子の一族による祟りを恐れて殺害した側の人間が建立(再建)したものであるというストーリーらしい。とするならば、アナロジー孝明天皇法隆寺ばりに盛大に祀らないと、明治維新の支配者たちは祟りにあうのではないか。しかし、結局はそのような1000年前の古代精神は失われていたから、という話で終わろうとしたが、調べてみると平安神宮

平安神宮についてあまり知らなかったが、左京区にあるので何回か行ったことがある。梅原氏は桓武天皇のことしか言っていなかったが、孝明天皇もしっかり祀られているではないか。建立されたのは1895年なので、やはり明治維新の支配者たちも祟りが怖かったのだろうか。むしろ十分にそれを分かっていたのかもしれない。

古代と近代の政治体制の節目と、法隆寺平安神宮というモニュメントの存在、日本に通底する何かがあるのかもしれない。

客観と印象 文章を読む主義

僕は予備校に通っていた時、中野芳樹という人から客観的に文章を読む方法を教わった。"ヨシキ"の方法は、限られた試験時間内で筆者の主張の要点を掴み記述式の解答を作成するのにかなり優れた方法だった。文章中の具体例からその前後にあるはずの主張部分を推定したり、"と思う""と考える"といった筆者の主観を含む表現、"こそ""重要"といった文中の修辞表現などに着目して、文章を読みながら後で記述解答を作成するために必要な本文中の情報をマーキングすることができた。この方法は、ごく短い試験時間内に与えられた文章を読んで解答を作成するという、一般的な読書の状況とはかけ離れたいわば"異常"な状況で威力を発揮するものだ。

一般的な読書状況の時は、こんな読み方をする人はいないと思う。何か特殊な要請がある場合は別にして、新書を読むのに鉛筆片手に主張部分に線を引くという読み方は異常である(と思う)。他の人が趣味の読書といった一般的な読書状況の時にどんな風に文章を読んでいるかということは、調査したことがないので分からないが、もっとマクロに全体として文章の繋がり、章、一冊を読むものだと思う。予備校式の客観的読解法は試験時間中に与えられる文章の絶対量そのものが少ないために、修辞に着目したり線を引いたりという作業が可能であり、そのようなミクロの読みが成立する。

しかし、そういう風にしてミクロの読みをやっていると、一般的な読書状況の時に得られるような文章全体としての印象が得られなくなってくる。それは試験時間内に読む短い文章においても発生する現象である。読解という脳の活動よりも、表現に注目したり線を引いたりという作業に意識が集中してしまうためではないかと思う。ある程度、客観的な読みと"印象"的な読みとの折り合いをつけ、それを両立することが、少なくとも試験対策としては必要だった。

そのようにして得られる読み方は、一般的な読書状況でも結構有効なものではないかと思う。実際に本に線を引くのではなくても頭の中で、ここは筆者の主張に関わる重要なもの、ここは興味深いけれど具体例や引用なのでそれほど真剣に読まなくてもスピードを上げて読むことができる、などと割り切って文章の読解にメリハリをつけることができる。なおかつベースは一般的な読書状況の時の"印象"的の読み方なので、ミクロになり過ぎず文章全体としての印象もちゃんと入ってくる。このミクロとマクロのバランスを常に色々と修正しながら文章を読んでいるのが、今の状況という感じがする。しかし、やや"印象"に偏っているきらいはある。

なぜこんなことをやっているかというと、僕自身いま"1年間で100冊の本を読む"と決めてそれに従って色々の本に手を出すという、あまり一般的ではない"異常"な読書状況にあるからである。1年間で100冊読むためには月に約89冊、34日に1冊のペースで本を読む必要がある。一概に""と言っても薄いものから分厚いものまで千差万別であり、小説なら読みやすいが文語的な文体で昔の人間が書いた専門的な本や翻訳の本は読みにくいといった難易の差もあるので、1冊の本を読むのにどれくらい時間がかかるかというのは本によるとしか言いようがない。しかし、ずっと本を読んでいては生活が出来ないので、ある程度のスピードで本を読む必要がある。そこで、必要としてこのような読み方を少なくとも理想としては、する必要があると思う。もちろん、"100"という目標達成のために、文章中のよく分からない部分をあまり深く考えなかったり、どちらかといえば短時間で読めそうな本を選びがちになったり、読んでいて集中が続かないと思ったらすぐ別の本に移ったりという、"弊害"が色々と発生している。たぶん来年は生活が徐々に忙しくなるだろうということも勘案すると、本を読む活動自体はそれなりに継続するが、"100"というのはやめて"量より質"の読書活動にシフトしていくのではないかと思っている。そのためにも今はまず""を追求する方向で、色々と述べた文章の読み方の問題についても自分なりに考えていきたいと思っている。

最後に、いわゆる"速読"の問題についての僕の考えを書いておきたいと思う。人口に膾炙している"1日で数十冊の本が読める"というような速読法の存在に対しては、僕は懐疑的である。恐らくはかなり簡単な本であればこそ、そのようなことが可能なのであって、僕が読んだことがある本を例として出すと、例えば柳田國男の『海上の道』や吉本隆明の『共同幻想論』というようなかなり難解な本に対して、同様なことが可能とは到底思えない。たとえ出来たとしても、それはただ読んだというだけであって、何かを理解している訳ではないと思う。これはかなり僕の独断が入っていると思うが、このことは僕が普通に時間をかけて読んでも、その内容をあまり理解できなかったことに対する一種の自戒のようなものであるということを表明しておいて、恥を晒さないうちに文章を締めておきたいと思う。

MMTや天皇について

私はMMTについて未だ全く不勉強ですから、以下で言おうとすることはほとんど間違っているかもしれません。MMTの主張するところというのは、極度のインフレ局面でない限り主権的に通貨を発行できる国家は財政破綻しないということだと理解しています。MMTが前提としているのは、通貨というのはそれで税金が払えることを国家が保障することによって通用力を持っているという通貨観です。MMTケインズと親和性がありますから、デフレ状態においては国債を大量に発行して財政出動すべきだという主張に向かいます。ここで、こんなことを言う人がいます。「MMTでは国債で財政を行うし、国債の償還にも新規国債を発行してそれでもって償還に充てるということなら、財政全部を国債だけで賄って税金は要らないのではないか。」実際には、税金には所得の再分配やビルト・イン・スタビライザー、経済の駆動力としての役割など税金としての重要な機能があるので、このような主張は間違いということのようです。しかし、この「税金0で国債だけで国家財政を全部やる」という状況はちょっと面白いと思ったのです。というのは、MMTは国家が税金の支払い手段として通貨を法定することで、人々は円やドルなどの通貨に信用があると思っているという通貨観に根差していますから、その通貨の力の源となっているところの税金というのを無くすと果たしてどうなるのかという好奇心です。これから10年間税金は徴収しませんというように期間を区切るとあまり意味がないように思います。それは結局、10年後には税金が復活するということを人々が知っているわけですから、税金がなくても税金に基づいた通貨の力というのは衰えないでしょう。そうではなく、例えば"間違ったMMT派"とでも言うべき集団が政権をとり、以降税金は未来永劫廃止して全部国債でやりますというようなことを言ったという状況を考えます。しばらくは慣性で通貨は力があると思いますが、どれくらいか分からないけど"しばらく"時間が経つと力というのは無くなってしまうのでしょうか。私の理解が間違っている可能性はありますが、MMTが前提にしていると考えられる通貨観では、それは"しばらく"経つと力は次第に無くなっていくのでしょう。その後、どうなるかは分かりません。あるいは、もしかするとこのようなプロセスにはならないのかもしれません。いま現時点でどういうことになるというのは分かっていませんが、この問題については少しずつ考えたいと思います。解決は、問題自体が解決されるという形でなされるかもしれませんし、あるいは問題自体が問題ではなくなるという形で解決されるかもしれません。最後に付け加えておくと、私はMMTに懐疑的ということでは全くありません。むしろ現時点では、"特定の条件下では極めて有効"なのではないかと思っています。国会議員でMMTを言う人があまりいませんが、自民党西田昌司代議士は応援しています。しかし、このことはこれから勉強していく中で私の考えが変わることがないということを言っているものではないということを言っておきたいと思います。

 

私は天皇は男系継承すべきだと思います。そして、男系継承できないなら天皇制はやめたらいいと思っています。2000年くらい続いてきた伝統が無くなるのは残念ですが、天皇がずっと男系で継承されてきた以上、女系で継承を始めるとそれは天皇ではない何者かになってしまいます。しかし、このことは男系継承を存続させるための積極的な措置を講じないことをよしとする見方を私が持っているということではありません。むしろ、旧宮家皇籍復帰とか、必要なことは全部やればいいと思います。その結果としてそれでも男系が途絶えるということならそれはもう諦めるしかないということを言っているだけです。女性天皇は何も根本的な解決になりません。純粋に皇位を継承できる男系男性の不在というだけの理由で男系の女性天皇を認めるという状況になっているとしたら、それはもうその次の代で男系継承は終わりなわけですから。しかしこのことは、男系の女性天皇に私が絶対に反対しているということではありません。話は少し変わりますが、女系天皇の意味や、女系天皇女性天皇との違いも理解していない日本人は、この議論に参加する資格はないと思います。別に何もそんなに難しいことを言っている訳ではないので、普通の成人なら誰でも理解できると思いますが、それでも理解していないのはひとえに理解するつもりがそんなにないということを端的に反映しているに過ぎないのであって、いくら憲法に"日本国民の総意"と書いてあるからといって、それならまずその理解に対する態度を改めた方がいいのではないかと思います。

今はたまたま天皇制に基づく立憲君主制で、議会があって全国から地域ごとに選ばれた人が国の在り方を議論していますが、これは結構すごいことだと最近おもっています。他国と比較してというのではなしに、こういうやり方は日本の歴史を2000年としますと、かなり最近の仕組みだからです。しかしその一方で、今のようなこういう制度ではないけども昔から日本ではこれに代わるような統治や政治の仕組みがずっとあって、今たまたまこういう見かけになっているという見方も可能だと思います。新幹線の車窓から見える密集した家々の風景や、田んぼの風景なんかを見ると、表面上の制度ということよりも昔からずっとやっていて、この島国で営まれてきた人々の様々な動的な活動というものが実感として少し分かったという感じを得ることがあって(しかしそれはかなり一面的な見方です)そんな日本像について最近は少し考えたりしています。