今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

とてもよい

ブログをはじめて2週間経つが、とてもよい。まず、書きたい時に書きたいことを書きたいだけ書くことができる。これはツイッターには不可能なことだ。ツイッターには140字という字数制限があるし(その気になればリプライとしていくつも繋げることは可能であるがさすがにいくらつぶやきとはいえ全く内容のない文章を2,000字もリプライを10個以上連ねて書くのは、もはやそれはツイッターではないだろう)そして最もよいことはクソリプが飛んでこないことだ。その気になればブログにコメントを残すこともできるようであるが、今のところコメントは一つも送られてきていない。これは別にこのブログに対してクソリプを送ってこいというフリでは決してない。非常に快適な言論空間がブログの開設により実現した。僕はこれからもブログを続けていく。これを読んでいるあなたも(あなたがツイッターのアカウントを有しているかどうかはわからないが)ツイッターなどという140字でしか自分の言いたいことを書けないような狭っ苦しい媒体ではなく、インターネットの広大な海に開かれたブログという自らの島を有してはどうだろうか。などとツイッター批判の様相を呈してしまったが、別にツイッターを批判する意図はない。ある物事の評価というのはあくまで相対的に決定されるものであり、それぞれの物事というのはよい部分とわるい部分の二面性を必ず有している。自らの選択肢を増やすことはとてもよいことだ。それ以上に、僕は140字に縛られていないみなさんの自由な言論、表現、文章というのを是非読んでみたい。それはきっと僕がブログと称して書いている文章よりもはるかに素晴らしいものであるはずだ

2010年 センター試験 政治・経済 追試験 大問1 問7

2010年 センター試験 政治・経済 追試験 大問1 問7

 

問7、下線部g(内閣)に関連して、現行の日本の内閣制度についての記述として誤っているものを次の①〜④のうちから一つ選べ。

国務大臣過半数は、国会議員でなければならない。
②内閣機能強化のため、内閣官房に代えて内閣府が設置されている。
③特別会の召集があったときは、内閣は総辞職しなければならない。
内閣総理大臣が主宰する閣議により、内閣はその職権を行う。

 

 

 

 

 

 

 

いかがであろうか。
なお、正解の選択肢は②である。

 

選択肢②「内閣機能強化のため、内閣官房に代えて内閣府が設置されている。」とあるが、「内閣官房に代えて」とあるからには内閣官房は存在してはいけないことになってしまう。現実には内閣官房は存在し、現在の内閣官房長官菅義偉氏である。

 

では、順に選択肢を見ていこう

選択肢①「国務大臣過半数は、国会議員でなければならない。」
これは正しい。日本の国務大臣は、基本的には国会議員から登用されるが、小泉政権下で経済政策を推進し「小泉・竹中改革」と呼ばれた竹中平蔵氏のように、民間人を大臣に登用することが可能である。なお、2003年に製造業への派遣を解禁した労働派遣法が小泉政権下で改正されているが、その後2009年に竹中平蔵氏は人材派遣大手パソナグループの会長に就任しており、格差を拡大させた張本人がその利益を享受しているとして未だ竹中氏を批判する声は根強い。なお、議院内閣制発祥のイギリスでは内閣を構成する閣僚は皆、国会議員でなければならない。対照的に、三権分立が厳しいアメリカでは、基本的に閣僚は議員を兼任することができない。行政権が立法権と結び付くと三権分立が保たれなくなると考えられているためである。

 

選択肢④
内閣総理大臣が主宰する閣議により、内閣はその職権を行う。」
正しい。なお閣議は原則非公開であるが、過去に小泉政権閣議を公開したことがあり話題となった。テレビなどでよく見かける、総理大臣や閣僚が椅子に並んで座っている光景は、閣議終了後の光景である。

 

選択肢③
「特別会の召集があったときは、内閣は総辞職しなければならない」
問題はこれである。この問7を解くためには選択肢②が虚偽の内容であることが分かれば良いのだが、この選択肢③が正解であることを導くのは難しい。
まず特別会の召集とあるが、特別会とは、衆議院解散総選挙後30日以内に開かねばならない国会である。とすると、衆議院が解散されて、衆議院議員選挙も行われ、いよいよ次の総理大臣を決めようという国会が開かれる時に初めて前の内閣は総辞職するのか。常識的な感覚では、衆議院が解散された時に国会議員というのは職をひとまず失うわけであるから、内閣もその段階で総辞職しているのではないのか、などと考えるわけであるが、実はそれは正しくないのである。
日本国憲法第70条には次のようにある。
「〔内閣総理大臣の欠缺又は総選挙後の内閣総辞職内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。」

この誤解を生んでいる原因として考えられるのは、緊急集会の存在ではないか。日本国憲法第54条2項には、衆議院解散中に参議院の緊急集会を開くことができるということが規定されている。
ただし、この参議院の緊急集会を求める行為主体は「内閣」であるとも規定されているから、この参議院の緊急集会のイメージだけが独り歩きしている感もある。

また、そもそも衆議院の解散というのは本来は、内閣への不信任決議に対抗する手段として実施されるものでもあるから、衆議院が解散された時点で内閣も総辞職していてはよく分からないことになってしまうという見方からの解答も可能だろう。

ちなみに、この選択肢③はこの日本国憲法第70条の条文を知らなくても今となっては解答することができる。
2017年秋の衆院選で、他の候補者たちがみな地元の選挙区に帰り選挙活動に勤しむ中、小野寺五典防衛大臣は地元に戻らず防衛省に残り北朝鮮を監視警戒するというニュースが流れたためだ。これは衆議院解散後も内閣が活動していなければ不可能な話である。恐らく、日本国憲法第70条の規定も、このような、例えば衆議院解散中に政治が行えないと他国に対し丸腰になってしまうということを回避するという設計思想から日本国憲法に盛り込まれたのではないか。

 

2010年の段階ではこの解答の仕方は不可能で
あったかもしれないが、日頃からニュースを見ることの重要性を痛感させる良問であった。
これからセンター試験を受けるという人も、そうでない人も、日頃からニュースを楽しんで見てみてはいかかだろうか

 

 

 

文責:フィロソフィア愛知

なぜ民主系議員は新党結成を繰り返すのか

最近知ったこと(2つ)

 

・goternment of the people,by the people,for the people(人民の人民による人民のための政治)というリンカーンの言葉の一般的な日本語訳は誤訳で、正しくは(人民が人民のために人民を統治すること)であるということ。(∵governをV、peopleを目的語とする名詞構文)(ちなみに、リンカーンは歴代の米国大統領の中で最も身長が高く193cmであり、トランプは190cm。身長が最も低いのは第4代のジェームズ・マディソン(163cm!))

 

・hijackという単語は一語で(ハイジャック)の意味であり、hiの部分に(空みたいな)意味は含まれていないということ。このことを知らなかったので、たびたび船ジャックという造語を使用していたこと。(ちなみに船ジャックにはシージャックという造語が既にある)

登山をしていて最もうれしいのは、…

Ⅲ 次の文章を英訳しなさい。

登山をしていて最もうれしいのは、下山がまもなく終わるというとき、山道が舗装された道に変わる瞬間である。登頂して美しい景色を眺めるときにも感慨を覚えないではないが、石にしろアスファルトにしろ、道が文明圏に変わるその一線に、山の醍醐味がある。

(3001年 京都大)

5月にヒートテックを着ると暑い


AIスピーカーにルンバを起動させたりルンバを起動させたりするCMが流れている

 

不可算名詞の見分け方!スタディサプリでは3つ!まずは1つ目!切っっても使える!bookは切ったら読めなくなるけど、paperは切っっても使える!

 

じゃあfurnitureはどうすんねん。切っても使えるんか。そもそも判定基準が3つもある時点で詰め切れてないやん。
そんな何でもかんでもAIスピーカーに頼んでたらアレクサ依存症なってまうで。ルンバ起動させたりルンバ起動させたりするくらいならええかもしれへんけど、お母さんの誕生日に歌うHappy Birthdayをアレクサに歌わせるのは違うやろ。違うだろ〜!
それで喜んでるお母さんも、というかCM自体がちょっと不気味。不気味の谷現象

 


小学校2年か3年かそのくらいの頃に、毎週家の近所に図書を貸し出すcarがやって来ていて、僕はお母さんが毎週10冊くらい借りてくる本の中から面白そうなのを選んで読んでいた。何しろ途中までしか読んでいなくても1週間で強制的に回収されてしまうので、1度読み始めた本は最後まで読み切らねばならなかった。そんな本の中から今でもその内容を少し覚えている本があるので、覚えている間に中身を書いておきたい。2冊あります。本の題名は分かりません。インターネット(そろそろこれとスマートフォンをカッコつけて、カッコついてないし「文明の利器」などと称するのはやめにしないか)で調べれば本の題名くらい分かるだろうという意見もあるかもしれませんが、本の内容から検索をかけて題名に到達するのはかなりしんどいし、僕としては当時の印象を不可侵の思い出にしておきたいので、題名を調べるということは致しません。が、僕が読書に疎いだけで本当はかなり有名なタイトルだったりするかもしれませんが、知っているという人があっても特段教えて頂かなくて構いません
まず1冊目、1冊目は少年が洗濯機に入る話。洗濯機から出てくる話だったかもしれない。妹と遊んでいたか何かで洗濯機に入ったか、もしくは何か特殊な石けんを使ったか何かでとにかく下水道に流されてしまう。下水道に流されると全身が泡だらけ、というよりもむしろ全身が泡になってしまって、いかだに乗って下水道を流される。その後紆余曲折があって(内容をあまり覚えていない時に使用される表現)数匹の動物たちと湖のほとりに何か建造物を建設する。その動物のメンバー(なんでメンバーメンバー言うんですかね)には鳥の類のものがいて(フクロウかな…?)本文の心内表現で「彼がいなかったら(その何らかの建造物)を作るのに途方もない時間がかかっただろう」的な記述があった気がする。そしてその湖や建造物とどういう関係があるのかは覚えていないが、ラスボス的な奴を倒す、あるいは何かしらの目的を達成して、元の世界に戻るために怪しげな婆さんと交渉する。この婆さんは実は下水道に入った後の紆余曲折の中で最初に少年と会っていて、かなりのキーパーソンだった気がする。などと、読者が知らない重要な情報を伏線もなくいきなり「実はこうだったんですよ!」みたいに放出するのは良くない。ネット上の低俗な官能小説などで多く用いられる手法であるが、読者を白けさせるだけである。逆にプロの小説家は途中で思いついた重大な設定を、最初の方に戻って撒き直しているのではないか。村上春樹は世界の小説の地脈に突き動かされるか命令されるかして身体からその地脈のエネルギーを放出するのが執筆活動だみたいなことを自著で書いていたが、通常の小説家の場合はそうではないかと思う。話が逸れたが、この後少年は魔法使い的な怪しげな婆さんとの交渉に成功し、少年は無事洗濯機から出てくることになる。
2冊目は魔女の話である。魔女の話であるが、今日はもう遅いしこれ以上文章が長くなるのは嫌なのでまたの機会に書くこととする。それでは

 

OK.Google 週末の山中湖の天気は?

無意味に思えるmumbo-jumbo

この文章の結論は本ページ最下部に掲示してありますので、本文の大部分を読み飛ばして頂いたてもお楽しみ頂けます

 

※本文は失敗しました。安っぽい科学論的な文体を揶揄する感じで書こうとしたら本当に安っぽい文章になってしまいました!

 

あなたはくだものを食べたことがありますか?と聞かれたら、何をバカなことを、というのが通常の反応でしょう。くだものなんか誰もが日常的に食べているではないか、と。恐らく、皆さんは今までの人生において何らかのくだものを食べる機会を持ったことがあることとは思います。しかしながら、あなたが食べたとするその「くだものであるとあなたが思っているもの」は本当に「くだもの」だったのでしょうか?
言い換えれば、あなたは本当に「くだもの」を食べたと言えるのか。あなたが食べたのは本当に「くだもの」だったのか?等々、矢継ぎ早に質問を受けると「くだもの」に対するゲシュタルト崩壊と押し売り詐欺を受けている時のような心理状態とによって、あなたはあなたの食べた「くだもの」に対する懐疑を、全面的にということはないにせよ、少なくとも少しは持ち始めているはずです。アダムとイブの神話から、ニュートンの重力発見、現在時価総額世界一の企業の名前に至るまで、人類は歴史的に「くだもの」と深く関わってきました。人々にとって「くだもの」は、ごく身近なものであった、または現在もそうであるわけです。ですが、むしろごく身近なものであった、またはそうであるがゆえに、私たちは「くだものとは何か」というその核心となる根源の部分については深く知ろうとしてこなかった、そういう面があるのかもしれません。普段身近によく知っていると思っていることを普段とは異なる見方から多面的に捉え直し、物事の新たな一面を探求するというのは、とても重要な知的活動の一つです。「くだもの」とは何かということについての認識なしに「くだもの」を食べたか否かということの判断はできません。あなたが「くだもの」を食べたかどうかを知るために「くだもの」とは何か、その定義を確認しておく必要があるでしょう。手元の電子辞書で「くだもの」と検索すると「草木の果実で食用になるもの」と出てきました。とすると、あなたが本当に「くだもの」を食べたのかどうなのかという問題は、あなたが「草木の果実で食用になるもの」を食べたのかどうなのかという問題に置き換わります。ですが置き換えたはいいものの、これでは当初より事の本質がどこか捉えどころのないものになってしまった感が否めません。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょうか。すなわち、あなたは確かに「くだもの」を食べた。それは確かです。しかしながら、あなたが食べた「くだもの」は、その実、個別具体的な「りんご」であったり「みかん」であったりしたのではないでしょうか。つまりあなたは決して「くだもの」を口にしたわけではなく、「りんご」や「みかん」を口にしたに過ぎないということです。あなたが食べたのは具体的な食物である「ぶどう」であったり「ドラゴンフルーツ」であったりした、この認識は非常に重要です。つまり、あなたが「くだもの」を食べることは不可能であるということです。

 


君は決して、くだものを食べることはできない!

 


このように考えてくると私たちは、一見身近に思える「くだもの」と私たちの間に、決して超えることのできない間隙を目撃したということになるのではないでしょうか。つまり、我々は「くだもの」を食べることはできません。我々が食べることができるのは、個々の「りんご」であったり「みかん」であったり、ということです。あなたは「くだもの」を決して食べることはできません。ですが、これはあなただけではなく私たち人類がその特質上、逃れることができない宿命なのです。

 さて、それでは我々が「くだもの」を食べることができる日は到来するのでしょうか。到来するとすればそれはいつなのか、そんなことをふと考えて思索の中で時を過ごしてみるのもたまにはよいかもしれませんねフフッ

 

 

文責:食後にいちごを食べながら フィロソフィア愛知

 

 

 

結論:「くだもの」は個々の「りんご」などの抽象に過ぎないので食べることはできない

テレビは「ネットの声」を報道するのをやめろ

 

じゃあそんなんやったら最初からネット見るわ。

 

現場のテレビ局員が一体どういう了見で(例えば街角に取材に行く時間がないとか、あるいは純粋にネット上の情報をお茶の間に紹介したいだとか)インターネット上の情報を、トピックとなっている話題に対して添えているのかということは分からないが、テレビ局のお偉いさんサイドとしては自局の朝のニュース番組(まともにニュースだけを放送しているテレビ局は残念ながらほぼ皆無だとは思うが)や昼のワイドショーで「ネットの声」と称して出どころ不明のネット掲示板の書き込みやTwitter上のツイートなどが、これまでテレビという放送媒体が得意とするところであったいわゆる「街の声」に代わって紹介されている(こともある)現状に対して、何らの違和感も抱かないものなのだろうか。一視聴者の見解としては、テレビや新聞にはインターネットが提供しない(あるいはできない)情報こそを、視聴者に提供して欲しいと思うのである。現在、テレビ番組が行なっている「ネットの声」を紹介する行為は、テレビ局自らが、自らを質の低いネット上のまとめサイト以下のものになり下げているということに他ならない。ましてや、テレビや新聞といった、あえて言わせてもらうと「旧媒体」になりつつある媒体が、新たに登場したインターネットに情報収集を頼るという行為それ自体が、テレビ・新聞自らが不要だということを宣言しているようなものではないか。しかも、そのような局面で紹介される「ネットの声」は本来あるべき文脈から切り離されて紹介されることがほぼ常であるため、視聴者側としても白々しさを感じざるを得ない。

 

つまるところ、取材をサボっているだけじゃないのか。テレビ局がテレビ局としてこれからも存在していきたいとテレビ局自身が真剣に考えているというのであれば、このような「街角の声」に代わって放送されていると捉えられても仕方がない「ネット上の声」を放送するのは即刻中止すべきであると私は考える。

byネット上の声