今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

巨勢徳太と伊藤博文

いま梅原猛の『隠された十字架』を読んでいてふと思い浮かんだことがあったので、それの備忘録である。

筆者によると、巨勢徳太という人物は、山背大兄皇子(聖徳太子の息子)殺害の現地部隊長であったという。”彼はこの乱による手腕が買われたのか、後に孝徳朝の重臣となり、” “大化改新の中心勢力がかつぎあげた二人の大臣” “が死んだ後に、大伴馬飼(長徳)と共に、それぞれ左大臣、右大臣になっている。”という。私は日本古代史に全然詳しくないので、この記述の専門的な整合性ということに関しては全く知らない。しかし、梅原猛氏も『隠された十字架』も賛否はありつつも高い評価を受けているので、信用する。

思い浮かんだことというのは、明治維新の際に孝明天皇を暗殺したとされる伊藤博文のことである。もっとも、孝明天皇の死因が暗殺であったか天然痘であったかは分からない。この説は、私はノンフィクション作家の鬼塚英昭氏が言っていたのを聞いて、それを採用している。

いずれも暗殺されたのは前の政治権力側の人間であり、そして暗殺した当の人間は暗殺後に出世している。この共通点が非常に面白いと思ったのである。日本国は話し合いで平和的に建国されたと竹田恒泰氏などは言うが、見えない暗殺の歴史がずっと続いているのではないか。

今は戦争は挟んだけれども明治維新からまだ150年と少ししか経っていないし、基本的には明治維新後の体制のまま来ているので、その秩序をひっくり返すような説は発表されないかもしれない。ちょうど藤原不比等が編纂させた(と梅原猛は言う)古事記日本書紀に不自然なまでに法隆寺に関する記述が無いように、沈黙を貫くことで事実は隠蔽されているかもしれない。

明治維新も1000年くらい経てば謎は解明されるだろうか?しかし、1000年前に編纂された神話と、日本古代の謎はいまだ解明されたとは言い難いのではないか。結局、天皇による権力者の末裔がずっと続いているということかもしれない。

梅原説によると、法隆寺はこのように暗殺された聖徳太子の一族による祟りを恐れて殺害した側の人間が建立(再建)したものであるというストーリーらしい。とするならば、アナロジー孝明天皇法隆寺ばりに盛大に祀らないと、明治維新の支配者たちは祟りにあうのではないか。しかし、結局はそのような1000年前の古代精神は失われていたから、という話で終わろうとしたが、調べてみると平安神宮

平安神宮についてあまり知らなかったが、左京区にあるので何回か行ったことがある。梅原氏は桓武天皇のことしか言っていなかったが、孝明天皇もしっかり祀られているではないか。建立されたのは1895年なので、やはり明治維新の支配者たちも祟りが怖かったのだろうか。むしろ十分にそれを分かっていたのかもしれない。

古代と近代の政治体制の節目と、法隆寺平安神宮というモニュメントの存在、日本に通底する何かがあるのかもしれない。

客観と印象 文章を読む主義

僕は予備校に通っていた時、中野芳樹という人から客観的に文章を読む方法を教わった。"ヨシキ"の方法は、限られた試験時間内で筆者の主張の要点を掴み記述式の解答を作成するのにかなり優れた方法だった。文章中の具体例からその前後にあるはずの主張部分を推定したり、"と思う""と考える"といった筆者の主観を含む表現、"こそ""重要"といった文中の修辞表現などに着目して、文章を読みながら後で記述解答を作成するために必要な本文中の情報をマーキングすることができた。この方法は、ごく短い試験時間内に与えられた文章を読んで解答を作成するという、一般的な読書の状況とはかけ離れたいわば"異常"な状況で威力を発揮するものだ。

一般的な読書状況の時は、こんな読み方をする人はいないと思う。何か特殊な要請がある場合は別にして、新書を読むのに鉛筆片手に主張部分に線を引くという読み方は異常である(と思う)。他の人が趣味の読書といった一般的な読書状況の時にどんな風に文章を読んでいるかということは、調査したことがないので分からないが、もっとマクロに全体として文章の繋がり、章、一冊を読むものだと思う。予備校式の客観的読解法は試験時間中に与えられる文章の絶対量そのものが少ないために、修辞に着目したり線を引いたりという作業が可能であり、そのようなミクロの読みが成立する。

しかし、そういう風にしてミクロの読みをやっていると、一般的な読書状況の時に得られるような文章全体としての印象が得られなくなってくる。それは試験時間内に読む短い文章においても発生する現象である。読解という脳の活動よりも、表現に注目したり線を引いたりという作業に意識が集中してしまうためではないかと思う。ある程度、客観的な読みと"印象"的な読みとの折り合いをつけ、それを両立することが、少なくとも試験対策としては必要だった。

そのようにして得られる読み方は、一般的な読書状況でも結構有効なものではないかと思う。実際に本に線を引くのではなくても頭の中で、ここは筆者の主張に関わる重要なもの、ここは興味深いけれど具体例や引用なのでそれほど真剣に読まなくてもスピードを上げて読むことができる、などと割り切って文章の読解にメリハリをつけることができる。なおかつベースは一般的な読書状況の時の"印象"的の読み方なので、ミクロになり過ぎず文章全体としての印象もちゃんと入ってくる。このミクロとマクロのバランスを常に色々と修正しながら文章を読んでいるのが、今の状況という感じがする。しかし、やや"印象"に偏っているきらいはある。

なぜこんなことをやっているかというと、僕自身いま"1年間で100冊の本を読む"と決めてそれに従って色々の本に手を出すという、あまり一般的ではない"異常"な読書状況にあるからである。1年間で100冊読むためには月に約89冊、34日に1冊のペースで本を読む必要がある。一概に""と言っても薄いものから分厚いものまで千差万別であり、小説なら読みやすいが文語的な文体で昔の人間が書いた専門的な本や翻訳の本は読みにくいといった難易の差もあるので、1冊の本を読むのにどれくらい時間がかかるかというのは本によるとしか言いようがない。しかし、ずっと本を読んでいては生活が出来ないので、ある程度のスピードで本を読む必要がある。そこで、必要としてこのような読み方を少なくとも理想としては、する必要があると思う。もちろん、"100"という目標達成のために、文章中のよく分からない部分をあまり深く考えなかったり、どちらかといえば短時間で読めそうな本を選びがちになったり、読んでいて集中が続かないと思ったらすぐ別の本に移ったりという、"弊害"が色々と発生している。たぶん来年は生活が徐々に忙しくなるだろうということも勘案すると、本を読む活動自体はそれなりに継続するが、"100"というのはやめて"量より質"の読書活動にシフトしていくのではないかと思っている。そのためにも今はまず""を追求する方向で、色々と述べた文章の読み方の問題についても自分なりに考えていきたいと思っている。

最後に、いわゆる"速読"の問題についての僕の考えを書いておきたいと思う。人口に膾炙している"1日で数十冊の本が読める"というような速読法の存在に対しては、僕は懐疑的である。恐らくはかなり簡単な本であればこそ、そのようなことが可能なのであって、僕が読んだことがある本を例として出すと、例えば柳田國男の『海上の道』や吉本隆明の『共同幻想論』というようなかなり難解な本に対して、同様なことが可能とは到底思えない。たとえ出来たとしても、それはただ読んだというだけであって、何かを理解している訳ではないと思う。これはかなり僕の独断が入っていると思うが、このことは僕が普通に時間をかけて読んでも、その内容をあまり理解できなかったことに対する一種の自戒のようなものであるということを表明しておいて、恥を晒さないうちに文章を締めておきたいと思う。

MMTや天皇について

私はMMTについて未だ全く不勉強ですから、以下で言おうとすることはほとんど間違っているかもしれません。MMTの主張するところというのは、極度のインフレ局面でない限り主権的に通貨を発行できる国家は財政破綻しないということだと理解しています。MMTが前提としているのは、通貨というのはそれで税金が払えることを国家が保障することによって通用力を持っているという通貨観です。MMTケインズと親和性がありますから、デフレ状態においては国債を大量に発行して財政出動すべきだという主張に向かいます。ここで、こんなことを言う人がいます。「MMTでは国債で財政を行うし、国債の償還にも新規国債を発行してそれでもって償還に充てるということなら、財政全部を国債だけで賄って税金は要らないのではないか。」実際には、税金には所得の再分配やビルト・イン・スタビライザー、経済の駆動力としての役割など税金としての重要な機能があるので、このような主張は間違いということのようです。しかし、この「税金0で国債だけで国家財政を全部やる」という状況はちょっと面白いと思ったのです。というのは、MMTは国家が税金の支払い手段として通貨を法定することで、人々は円やドルなどの通貨に信用があると思っているという通貨観に根差していますから、その通貨の力の源となっているところの税金というのを無くすと果たしてどうなるのかという好奇心です。これから10年間税金は徴収しませんというように期間を区切るとあまり意味がないように思います。それは結局、10年後には税金が復活するということを人々が知っているわけですから、税金がなくても税金に基づいた通貨の力というのは衰えないでしょう。そうではなく、例えば"間違ったMMT派"とでも言うべき集団が政権をとり、以降税金は未来永劫廃止して全部国債でやりますというようなことを言ったという状況を考えます。しばらくは慣性で通貨は力があると思いますが、どれくらいか分からないけど"しばらく"時間が経つと力というのは無くなってしまうのでしょうか。私の理解が間違っている可能性はありますが、MMTが前提にしていると考えられる通貨観では、それは"しばらく"経つと力は次第に無くなっていくのでしょう。その後、どうなるかは分かりません。あるいは、もしかするとこのようなプロセスにはならないのかもしれません。いま現時点でどういうことになるというのは分かっていませんが、この問題については少しずつ考えたいと思います。解決は、問題自体が解決されるという形でなされるかもしれませんし、あるいは問題自体が問題ではなくなるという形で解決されるかもしれません。最後に付け加えておくと、私はMMTに懐疑的ということでは全くありません。むしろ現時点では、"特定の条件下では極めて有効"なのではないかと思っています。国会議員でMMTを言う人があまりいませんが、自民党西田昌司代議士は応援しています。しかし、このことはこれから勉強していく中で私の考えが変わることがないということを言っているものではないということを言っておきたいと思います。

 

私は天皇は男系継承すべきだと思います。そして、男系継承できないなら天皇制はやめたらいいと思っています。2000年くらい続いてきた伝統が無くなるのは残念ですが、天皇がずっと男系で継承されてきた以上、女系で継承を始めるとそれは天皇ではない何者かになってしまいます。しかし、このことは男系継承を存続させるための積極的な措置を講じないことをよしとする見方を私が持っているということではありません。むしろ、旧宮家皇籍復帰とか、必要なことは全部やればいいと思います。その結果としてそれでも男系が途絶えるということならそれはもう諦めるしかないということを言っているだけです。女性天皇は何も根本的な解決になりません。純粋に皇位を継承できる男系男性の不在というだけの理由で男系の女性天皇を認めるという状況になっているとしたら、それはもうその次の代で男系継承は終わりなわけですから。しかしこのことは、男系の女性天皇に私が絶対に反対しているということではありません。話は少し変わりますが、女系天皇の意味や、女系天皇女性天皇との違いも理解していない日本人は、この議論に参加する資格はないと思います。別に何もそんなに難しいことを言っている訳ではないので、普通の成人なら誰でも理解できると思いますが、それでも理解していないのはひとえに理解するつもりがそんなにないということを端的に反映しているに過ぎないのであって、いくら憲法に"日本国民の総意"と書いてあるからといって、それならまずその理解に対する態度を改めた方がいいのではないかと思います。

今はたまたま天皇制に基づく立憲君主制で、議会があって全国から地域ごとに選ばれた人が国の在り方を議論していますが、これは結構すごいことだと最近おもっています。他国と比較してというのではなしに、こういうやり方は日本の歴史を2000年としますと、かなり最近の仕組みだからです。しかしその一方で、今のようなこういう制度ではないけども昔から日本ではこれに代わるような統治や政治の仕組みがずっとあって、今たまたまこういう見かけになっているという見方も可能だと思います。新幹線の車窓から見える密集した家々の風景や、田んぼの風景なんかを見ると、表面上の制度ということよりも昔からずっとやっていて、この島国で営まれてきた人々の様々な動的な活動というものが実感として少し分かったという感じを得ることがあって(しかしそれはかなり一面的な見方です)そんな日本像について最近は少し考えたりしています。

寶馨氏を支持します【2020京大総長選】

学生には投票権はありませんが、私は勝手に、寶(たから)馨(かおる)氏を支持したいと思います。期末テストや期末レポートに絶賛追われているこの7月中旬なので、詳しく解説や分析の記事を書いたりすることはできませんが、京都大学の一学生が、山極壽一現総長の後任である第27代総長を決める2020年の京大総長選で、寶馨氏を支持したという足跡でも残ればいいかなと思っています。

 

まず、Twitterなんかを見ている限り、現理事である北野正雄氏や湊長博氏は学生には圧倒的に人気がなく、寶馨氏や大嶋正裕氏を支持する声が多く見られます。時任宣博氏と村中孝史氏について言及する声はあまり見受けられませんが、どちらかというと時任宣博氏の方がという消去法的な感じがあります。

 

今回の2020京大総長選については、以下のブログにほとんど全てと言っていい情報がまとまっているので、参考になります。総長選が終わった後にアーカイブが消えないかどうかは心配なので、情報はコピーして全部残しておく必要があるとは感じます。

sites.google.com

拘束力はありませんが、7/17まで学生も投票できる投票を主催されているので、まだ投票していない方は投票してみてはいかがでしょうか。

 

さて、私が寶馨氏を支持する理由という本題に入りたいと思います。私が寶馨氏を支持する理由は以下の3つです。

1「吉田寮生への提訴を取り下げると言明している唯一の候補である」

2「情報公開連絡会を再開すると言明している唯一の候補である」

3「"一律"30単位のCAP制廃止を示唆している」

 

1(「自由の学風にふさわしい京大総長を求める会」の公開質問状、質問2:吉田寮裁判への回答、"大学が学生を告訴しているという状態を一刻も早く解消し、”)

2(吉田寮自治会の公開質問状(1)学生への情報公開についてへの回答、"できるだけ早く情報公開連絡会を再開したい")

3(吉田寮自治会の公開質問状(5)CAP制についてへの回答、"学生全員一律、とする必要はないと考えます。")

 

全体を通して、京都大学が重視してきた価値観である"対話"に非常に重きを置いているなという印象があります。一般に、政治にしても何にしても強権的な手法でやった方が物事は決まりやすい訳で、それで山極壽一体制の時は、いきなり寮生を提訴したりタテカンを撤去したり学生に何の相談もなく一律30単位のCAP制の導入してみたりと、学生は酷い目にあってきました。私は2019年に京大に入学しましたが、その弾圧の光景を嫌というほど見てきました。寶馨氏は、対話を重視するあまり、逆に何も決まらないんじゃないかとこちらがちょっと心配になってしまうほど対話を重視しているように見えますが、むしろそれくらいがちょうどいいのかなと思います。

なお、CAP制については私が過去に書いた記事があるのでご覧ください(宣伝)。

philosophiaichi.hatenadiary.jp

 

以下は、今回の総長選に際して寶馨氏が作成したと思われるWebページですが、京大債の発行など、中々面白いマニフェストが掲げられています。

www.gsais.kyoto-u.ac.jp

 

最後に、今回の2020京大総長選の候補者に対して4団体が行っている公開質問状への回答状況を見てみたいと思います。4団体とは、以下の4団体です。

president-election.hatenablog.com

www.kyodai-union.gr.jp

www.yoshidaryo.org

 こういう公開質問状の文化なんかは、いかにも京大らしくていいと思います。

 

f:id:philosophiaichi:20200715234016p:plain

上表からも分かるように、寶馨氏は4団体全てからの公開質問状に回答しており、選挙権がある教員・職員はもとより、学生との対話をも重視するという姿勢がよく分かります。一方で、例えば北野正雄氏は、投票権を有する職員や教員が多く所属すると思われる京大職員組合を含む4団体全てからの公開質問状に回答しておらず、対話を重視しないという姿勢はもちろん、本当に総長になる気があるのかすら疑問に感じます。湊長博氏と、村中孝史氏に関しては、職員組合からの質問状くらいは回答しておくかという感じでしょうか。

 

学生には投票権はありませんし、誰に投票するか(さらに職員や教員による投票は意向調査に過ぎず、最終的には総長選考会議が決定するので、投票で勝ったからといってその人が総長になるとは限らないというザル制度)は個人の自由ですが、有権者の方々は今後6年間の京都大学のあり方を大きく左右する京大総長選、責任をもって一票を投じて欲しいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

睡眠について

このブログではブログを始めて文章を書き始めた当初から、大した話題が特にある訳でもないのに(旅の日記はいつ書くんですか、いやでもコロナであんまり出歩かれないし)ブログを始めてそれがなんやかんやで2年以上続いているということは、文章を書いているというよりはむしろブログを使って遊んでいると言った方が正しい場合もあるかもしれないが、自分で考えてみてもただただ驚くばかりです。当初から、というよりもむしろ物心ついた時から、と言った方がいいかもしれませんが、私は睡眠問題に多くの場合けっこう悩んできて、でもなんとかなってるのでなんの対策もしてないですが、そのことについて最初の方は書いていた記憶があります。そもそもなんでブログを始めたのかと聞かれても、いま思い返しても忘れてしまっているのでわかりませんね。そんな訳で最近の私の睡眠のことについて少し書こうと思います。

最近の睡眠と言っても、最近では漠然としてますから、大体コロナが流行り始めて、大学が始まってから今までくらいのことを考えてみましょう。コロナ問題が顕在化してきたのは、1月から2月初めくらいだったと思います。このブログでも書いた吉野彰さんの講演会の話で、期末テストを早抜けして祇園四条の橋を渡る時に妙に人が少なく感じられたのは、支那政府が自国民の団体海外旅行を何日か前に禁止したからと考えたということを書いた覚えがあります。2月になると、結局ゴールデンウィークくらいまでは春休みで、ただ家でゴロゴロしていただけだった訳ですが、もはや記憶があまり無くてうろ覚えですが当初は多少ともまともな生活をしていたと思いますが、段々と寝るのが朝に近づいてきて、起きるのが昼に近づいてきた状態だったと思います。2月と3月で2回、東京に住んでいる友人の家に遊びに行った時も、そんな感じで5時くらいまで起きて昼前くらいに起きていたと思います。それで14時からのバイトに遅刻するという事件が起きたのも確か2月のことだったと思います。そんな生活をずっと続けていると、徐々に家の人からの視線が気になってきて、もっとちゃんとした生活をしろということで、ランニングを3月下旬くらいに始めて、5月は月間120kmくらい走りました。ブログを始めた当初は、このランニングのことについても少し書いたような覚えがあります。あの時は、予備校に行く前に朝、毎日走っていたら5月か6月くらいに膝を痛めてそこからはやめた記憶があります。そこで今度は、その教訓を活かすということで、毎日走るのはやめて、二日に1回程度、距離を少し伸ばして走るということにしました。もっとも最近は、梅雨で梅雨と言っても最近の梅雨にしてはちょっと珍しいくらいのほとんど毎日雨が降っているので全然走れていません。そういう訳で、昼間運動してもだからといって夜よく眠れるようになるというわけではありませんでした。5月以降は、大学の授業が始まりましたが、まあ4月もほんのいくつかの授業はやってましたが、通常のように大学に通って授業を受けるというのではなしに、自宅にいながら、パソコンに向かって授業を受けるというスタイルに変わりましたから(コロナのせいでね)1限で6時半とか7時に起きていた昨年度とは違って、1限でも845分に起きさえすれば授業を受けれるということで、大学が始まればちゃんと起きると言っていた私の睡眠態度はまったく改善されませんでした。今までに何回か、1限と2限で、リアルタイムの出席が必要な授業は寝過ごして、受けれていません。そうして大学が始まったわけですが、それくらいから、大学にも行かないし人と会うなという感じでしたから、人との会話を求めて夜からzoomを繋いで課題をやりながら喋ったりする会を不定期的にやるようになって、それをやると私以外の人も結構朝まで起きている人がいて、5時とかに寝てしまうと8時には起きれないので、1限がある水曜日は寝ずに1限を受けて、受け終わってから昼過ぎまで寝るという感じで、それは今も大体そうです。2限がある金曜日もそんなことをやっていると、土曜日は何も無いですから、一回だけ午前からzoomでやると言われたバイトを完全に寝過ごすということがありました。本当に申し訳ないとは思いますが、自分の睡眠を改善するより、そもそもそんな早い時間にバイトをする方が無理なので、それ以降は出来るだけ夕方以降に始まるような時間にしています。友人で17時からのバイトに何回も遅刻してる人がいますが、彼の睡眠も私と似たような感じではないかと思います。逆に、朝7時とか8時とかから始まるバイトは、普段やっているようなそもそも寝ずに朝まで起きておく戦法が使えますから、それでやり過ごしました。こんな生活をやっていると、5月の終わりか6月の初めくらいに一週間くらいだけ、2日に1回だけ12時間とか寝るという生活になってしまって、流石に不味いと思って、それはなんとか直しましたが、朝まで起きるというのは全然改善されずに、最近はずっと昼過ぎまで寝ています。それで変な言い方ですが安定してきたので、もはや家の人にも何も言われなくなっています。こんなところで、睡眠問題というよりは、睡眠問題を中心としたコロナ以降の普段の生活という感じになってしまいましたが、終わっておきたいと思います。

大村愛知県知事のリコールは憲法99条を軸にすべき

(以下敬称略)高須克弥百田尚樹竹田恒泰、有本香、武田邦彦らを中心に、大村秀章愛知県知事をリコールするための署名活動が始まっている。詳細は以下のリンクを参照されたい。

aichi-recall.site

 

上のページの"設立趣旨"にも色々と書かれているが、リコールの主な目的は、2019年のあいちトリエンナーレにおける"表現の不自由展"で、昭和天皇の肖像を燃やしたりするような作品に、公金を支出するという大村愛知県知事の姿勢を問うことだと見てよいだろう。リコールが成功すれば、現行制度下で都道府県知事レベルの罷免が実現する最初の例となり、社会的にも大きな影響が及ぶだろうことは想像に難くない。

 

ja.wikipedia.org

なお、上のWikipediaの"都道府県知事・市町村長の解職"の項によくまとめられているが、署名が一定数以上集まっても、直ちに失職するということではなく、最終的には住民投票にかけられて、そこで罷免の是非が問われることになる。

 

私が問題にしたいのは、リコール運動それ自体というより、リコール運動のアッピールの理由や根拠として、何を使っていくかということである。どうも、運動の主体となっている高須克弥氏の言動などを見ると、押しが弱いのではないかと思われるのである。

例えば、以下のツイートである。

 また、会見にも参加していた竹田恒泰氏のツイートを以下に引用する。

もっともリコールの請求は一定以上の署名数が集まれば実現するから、リコールの署名を訴える根拠は、署名数が十分集まりうるものであればなんでもよい。しかし、純粋に署名数を集める上では、その根拠は、個人によって異なる思想に左右されるものではなく、あくまで中立的な"装い"をしたものである方が望ましいのではないかと思う。

その点で、リコールの根拠を愛国心に訴えかけるものにすることや、あるいは少しは法律的な体裁を整えようということで日本国憲法第一条を持ち出すのは、決して悪いことではない。

 

日本国憲法第一条:

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。日本国憲法

 

しかし、それでは日本国に対する愛国心をあまり持っていない人や(残念なことだが)、あるいは憲法でいくら"日本国民の総意"と書かれているとは言っても、先の大戦での直接的・間接的な経験や、戦後の"自虐史観教育"などの影響、はたまた天皇制の下での立憲君主制以外の望ましい国家像を別に持っているなどの理由で、個人的に天皇によい思いを持っている人だけから日本国民が構成されているわけではないのもまた事実であって、そのような人々に対するアッピールとしては押しが弱い。

そうであるとするならば、署名数を一定数以上集めるというまずリコールの請求に必要な条件をクリアし、後の住民投票で罷免を実現させるためには、愛国心に訴える方法や、憲法1条だけを根拠にするのは、やや不十分ではないかと思うのである。

それでは、一体何をアッピールの根拠として使っていくべきなのだろうか。私は、日本国憲法第99条を使うとよいのではないかと思う。

 

日本国憲法第九十九条:

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。日本国憲法

 

上記の条文中の"その他の公務員"の中には、当然、愛知県知事も含まれるから、大村愛知県知事もまた、日本国憲法を尊重し擁護する義務を負う。その上で、日本国憲法第一条を持ってきて、"日本国の象徴であり日本国民統合の象徴"である天皇を、個人的にどういう考えを持っていようともそれは自由だが、愛知県知事という一応公人である訳だから、そのような振る舞いをするのは適切ではない、という線で論理を詰めれば、たとえ肖像を焼いてそれを踏みつけるくらい昭和天皇のことが嫌いな大村愛知県知事でさえも、納得してリコールの署名に同意するに違いない。

まあ、もっともそのような考えを持っている人が実際にリコールの署名にサインするとはおよそ考えにくいが、現代の日本においては、実際には右傾化が進んでいるのかもしれないが、政治的に無色というか中立であることを、重んじるような気配があるので、あまり積極的に愛国心に燃えているわけではなかったり、昭和天皇のことが好きであるというわけではない人も多いでしょうから、そのような人々にも署名の根を伸ばすという点において、誰もが納得する日本国憲法第99条を軸にした論理で、署名活動のアッピールをしていくのがよいのではないかと、私は思います。