今後、旅の日記を書くために用意したブログ

今後、旅の日記を書くために用意したブログです。今のところ旅に出る予定は無いので、旅の日記以外のことばかり書いています。

「京大は単位が降ってくる」

質問:世間一般の認識として、京都大学は単位が取りやすい大学であるとされている。京都大学の単位は空から降ってくるが、大阪大学の単位は大阪湾に沈んでいるという、単位の取りやすさの印象を例えた比喩がある。実際のところ、京都大学に通う学生の実感としては、単位は取りやすいのか?

 

回答:まず、一般論として、私は京都大学以外の大学に通ったことがありませんから、他の大学と比較して、という文脈において単位が取りやすいか、そうではないかということに関して回答を申し上げることは難しく存じます。その上でまず、過去の京都大学と現在の京都大学とを比較するということを考えますと、昔京都大学に通っていた関係者、教授、教員などのお話を総合する限りでは、それはどうも同じ時間に2つ以上の科目を履修できたとか、テストを受けるだけで1回も授業に出席していないのに単位が出たとか、3回目くらいから教授が授業に来なくなったとか、果ては履修した覚えのない講義の単位が発行されていたとか、現在では到底考えられないような大学の状況であったということですから、今と昔を比較して、単位の取りやすさを比べると、それは昔よりは単位が取りにくくなっているということであろうと思われます。しかしながら、それでは他の大学より単位を取るのが現状難しいか、と言われるとこれは大きく個人差があるところではあると存じますが、確かに多くの授業で出席は取られないにしても毎週課題が出ますし、期末レポートや期末テストもちゃんとありますけれども、それほどでもないという印象を受けます。これは、多くの大学が1年を4分割していたり、あるいは前期後期制であっても中間テストを厳格に実施しているため、テスト勉強に追われる頻度が、格段に多いという状況が関係していると思われます。京都大学では、中間テストがある講義も無いではないですが、基本的には少なく、またそのことによって、テスト対策に追われる期間が1年のうちの短い期間で済み、また8,9月と2,3月がほぼ全て休暇という状況と相まって、そのように感じられるということだと思います。しかし京都大学ではおよそ2割の学生が留年するという調査の結果もあって(参考:留年について-カウンセリングルーム(京都大学))「自由の学風」を標榜する京都大学にあってこれは如何に、とか或いは学生が自由を享受して4年で大学卒業することを必ずしも目指していない学生が他大学より多い、ということもあるかもしれませんけれども、私個人の見立てとしましては、この結果は単に、卒業に必要な単位数が多い、ということと関係があるのではないかと思われます。京都大学の多くの学部では、卒業要件が144単位とか、150単位以上という学部もありまして、これは大学設置基準に定められている124単位という基準よりも顕著に多い数であります。このことが、個々の講義の単位の取りやすさの印象と、留年者の多さという一見相容れない結果を引き起こしているのではないかと、こう考えている訳でありまして、少し話が脱線しましたけれども、京都大学の単位の取りやすさということに関して、私見を述べさせて頂いた、こういう次第であります。

philosophiaichi.hatenadiary.jp

Youdentity 他者の同一性

僕は人の名前や顔を覚えるのが結構苦手なのではないかと思っています。詳しく調べた訳ではありませんが、僕の他の能力や、他の人のこの能力と比較して、体験的にそう感じています。人の名前や顔を覚えるのが苦手、と言うとき、それは以下の3つのことが考えられるのではないかと思います。

1、人の名前を覚えるのが苦手

2、人の顔を覚えるのが苦手

3、名前と顔の組み合わせを覚えるのが苦手

このうち、どの能力が最も不足しているのかは分かりませんが、どれも同じくらいにできないか、感覚的には2が最も苦手で、3はそれほど苦手ではない気がします。1と2の能力が足りていて、3だけが顕著に不足している場合、しばしば自信を持って名前を話しかけた時に、人違いが起きそうですが、あまりそういう事態にはなっていません。2の能力は最も苦手で、その日会った人の顔を、夜思い浮かべるということが難しいです。このことの原因としては、まず第一には昼間にその人の顔をきちんと見て会話していないということがありそうです。しかし、昼間きちんとその人と向き合って会話をした人であっても、思い出そうとすると中々できずに、その人ではない、よく顔が似ている別の人の顔の印象が混ざってきたりして、正確に思い出すことができません。昔からよく知っている友人や知り合いの顔は、そうでない人に比べるとよく思い出すことができますが、しばらく会っていなくて久しぶりに会うと、顔の印象が変わっていたりして、別人とは思わないにしても、少し驚いてしまうことがあります。その驚きは、驚いているので、あまり表現できません。数回しか会ったことがない人の顔よりは、安倍晋三小池百合子や吉村洋文の顔の方がよく思い出すことができます。

名前を覚えるというのは、顔を覚えるのとはまた別の難しさがあります。顔は(化粧をしていても)基本的には公開されているものですが、名前はわざわざ聞き出したり、それが書かれているものを見たりしないと分からないからです。その上でまた、名前を覚えるかどうかという別の問題があります。僕はしかし、この名前が分からない状態で進行する人間関係に一種の風情を感じる傾向が少しあって、過去に書いた文章を読むとそういうことが書いてあったりします。その人と、既に最低一度は会ったことがあるということが分かっていても、名前をすぐに思い出せない場合があります。逆に、一度は見たり聞いたりしているはずの名前を見ても、その人の顔を思い出せないことがあります。これは3の能力に関連しそうです。先ほど僕は、3はそれほど苦手ではないと書きましたが、撤回します。3の能力には、以下の2つが考えられそうです。

3-1、名前を見て、その人の顔を思い出せるか

3-2、顔を見て、その人の名前を思い出せるか

顔を覚えていない人に関しては、3-1は不可能です。しかし顔を全く覚えていないというのでなくても、顔と名前の結びつきが弱い場合、思い出すのが難しい場合もあります。ここまで書いてきて分かったこと(あるいは最初からこれを書こうとしていた本題への導入)は、僕は人の顔や名前を非常に漠然と、曖昧とした形でしか覚えていないということです。それは恐らく他の人と比較してという意味で。ただし感覚的には名前の方が顔よりはよく覚えています。名前>顔です。

それでは僕は、他者がその他者であるということをどのように判断するのでしょうか。この他者の同一性、一貫性をyoudentityという言葉で呼ぶことにします。youdentityは僕が勝手に作った言葉で、自己の同一性を意味するidentityをもじっています。専門用語で、他者の同一性の認識を表す言葉が既にあるのかもしれませんが、そういう分野はあまり勉強していないし少し調べても分からなかったので、ここではyoudentityを使うことにします。僕はそれは文脈だと思っています。そして、この文脈には名前や、顔も含まれています。けれど、その文脈に占める顔や名前の割合がそれほど大きくないということなのだと思います。つまり、例えばこういうことを考えます。一度も会ったことがなく顔も名前も分からない人と待ち合わせをして会うという場合、そこでその他者の特定に使えるのは何時何分に何々駅のどこそこで集合することになっているという、まさにその事実のみでしょう。何となく格好からこの集団は自分と同じ目的でここに来ている人々の集合だと認識することもそうでしょう。これらは文脈の例です。全くの初対面の人ではない人と会うときも、そうした要素が文脈として機能するということは想像できると思います。予定調和しているということを逆に、真実性の根拠として採用している感覚です。確かなことはありません。懐疑的かもしれません。

そこにいるのが全く別の人でも、文脈がある程度満たされていたら場合によっては気づかないかもしれません。話を始めて、もっと文脈が強くなってくると、例えば過去の共通の体験についての話が噛み合わないとか、気づくかもしれません。記憶は、自分が自分であるということ、まさにidentityを担保する強力な文脈であると思います。一方で、私たちはyoudentityを何によって担保しているのか、そういうことを底で考えて、たまに息継ぎのために浮上してきて、そういう風に進んでいきたい 2000字を超えてきたので、そろそろ終わりにします。

1964

私は最初の1時間くらいしか見てないので、ドローンとかはよく分からないのですけれど、2021年東京オリンピックの開会式が、あまりに面白く無かったので、1964年の映像をYoutubeで探して見ています。

選手入場行進が、私のいた高校の体育大会の行進模様を彷彿とさせ、私はアインシュタイン先生と違って行進を結構面白く見てしまう人間でして、楽しく見ています。

www.youtube.com

上の動画の3分40秒あたり、統一ドイツの選手団入場の際の実況がこんな感じです。「374人の選手を送りました。最大のデレゲーション。統一ドイツであります。」私は不勉強なので、delegationという単語の意味をよく知らなかったのですが、どうやら「代表団」とかいう意味のようです。

ejje.weblio.jp

「学習レベル」を見てみると、大学以上とか、TOEIC860点とか、書いてあります。私はこないだ受けたTOEICで700点くらいだったので全然足りてない訳ですが、そうは言ってもややレベルの高い単語ではありそうです。当時のテレビやラジオの普及がどんなものかはよく分かりませんが、おそらく日本中の人が見るであろう東京オリンピックの実況という場所で、他に形容のしようが無いかも分かりませんが、delegationという単語を使うのは少し難しいように感じられるのです。僕はこう思った訳ではなくて、分からない人がいても少し程度の高い英単語を使って許される1964年の日本の状況、またdelegationと言って普通に伝わるくらい当時の日本人の教養がかなりあったのか、そういうことを考えています。

Tokyo 1964 Olympic Games - Olympic Flame & Opening Ceremony - YouTube

また、この映像も結構いいなと思いました。ギリシャから中東や東アジアの国を通って聖火がやってくるという描写があるのですが、世界各地でそれぞれの生活様式で暮らす人々、子供たちが聖火を見ようと列をなしているところは、五輪という世界的イベントへの志向は万国共通のものがあるように感じました。また少し戻るのですが、2分42秒あたり、市電(市電か分からないけど路面電車)が走り車が行き交い横断歩道をわたる大勢の人という、いまだったらベトナムベトナムかは分からないですが)とか東南アジアの発展途上の国で見るような光景が、1964年の東京にあると思いました。当時はまだ、日本も発展途上だった訳ですから、発展途上の東アジアの国の光景というのは、どこも似たような感じになるのかもしれません。聖火が日本国内を走る様子も面白かったです。今と違いまだ衰退していない地方、そこの子供たちの描写、広島を走る聖火は規制線も何もなく、押し寄せてくる人を警備員が何とか止めて道を開けるという様子、今だったらたぶんあり得ないけれど、1964年にはあったある種の自由さ、公式(formalという意味)がいい意味で緩いという、そういう日本の感じを受けます。

初代エントロピー政策担当大臣の談話

それでは定刻になりましたので、エントロピー政策担当大臣から、独立した行政機関としてのエントロピー省の設立に至った先般の経緯と、今後のエントロピー政策の展望についてご説明を頂きたいと思います。それでは大臣、お願いいたします。

みなさま、大変お忙しい中、お越しを頂きまして、ありがとうございます。まず本題に入る前に、昨今のエントロピーを取り巻く日本及び世界の情勢について軽く触れてから、本題に入りたいと思います。党のワーキンググループとして、エントロピー部会が立ち上がったのが今から5年前の12月になります。それ以来、我が党はエントロピー政策こそが、現在の閉塞した日本経済の状況を打ち破り、世界の発展に資することができると信じて本日までやって参りました。物理学者をはじめとして、熱、量子、情報の分野で著しい業績を残されている先生方、また歴史や経済を専門に研究されている幅広い分野の先生方を大学、シンクタンク、企業など所属は問わずお招きし、あるべき政策の形を徐々にではありますが、今日に至るまで研究して参りました。その成果を元に、先の衆院選では我が党は公約としてエントロピー政策の推進を掲げ、多くの国民のみなさまからの支持を得て、第一党を勝ち取ることができました。そのような強力な国民のみなさまからのバックアップ無しには、エントロピー政策は実現できません。まずは国民のみなさまに深くお礼を申し上げたいと思います。さて、世界に目を転じてみますと、もはやエネルギー政策、そしてエントロピー政策こそは国家を挙げて取り組むべき課題として各国が研究を進めております。このような情勢に先立って、我が国がエントロピー政策を進める上で、独立した行政機関としてのエントロピー省の設立に至ったことは、今後我が国が世界を牽引していく上で不可欠な土壌を醸成したものと、深く評価されるのではないかと考えております。

それではここからは具体的に、エントロピー政策および、エントロピー政策を具体的に推進するためのエントロピー省についてご説明をいたします。すでに我が党は先の衆院選エントロピー政策を公約に掲げておりますし、また連日の報道でエントロピー政策については、世論が高まりを見せていることもまた事実でありますから、ここでは概要だけ、お話ししたいと思います。まず、前提となるエントロピーについてですが、これは科学、歴史的な文脈では元々、主に19世紀後半から熱学がいよいよその完成を見る時期でありますが、熱力学第二法則に端を発するものであります。熱力学第一法則につきましては、まあ広義のエネルギー保存則ということで、みなさまご存知だと思いますから、説明を省略したいと思います。熱力学第二法則は、ドイツの物理学者クラウジウスが1850年に発表した論文で初めて提唱されたものであります。この時はまだエントロピーという概念は無く、数学的体裁もまとっておりませんでしたが、同じくクラウジウスが1854年に第二法則の数学的表現にたどり着き、また同じくクラウジウスが65年に状態量としてのエントロピー概念に到達したことを以って、人類のエントロピー概念の獲得ということになる訳であります。その後、第二法則はまま難解であったためにエネルギーの散逸だという誤解をされ続け、また当初クラウジウスが想定したことには熱拡散と物質拡散の両方を以ってエントロピー概念を考えていたわけでありますが、世界の歴史の進展の中で後者に関しては顧みられることがなく、不可逆的な環境への物質の拡散が、人間の生存問題に関連した環境の問題となっていたことは皆様も記憶に新しいかと思います。その後エントロピーを取り巻く歴史は、物理の関心を飛び越して、まず情報分野にその応用を見ることになります。情報理論がますます発展する中、1948年にシャノンが情報理論の枠組みでエントロピー量を考えることを提唱したわけです。これはエントロピー概念の他分野への最初の応用例でありますが、エントロピー概念の持つその本質性、普遍性ゆえに、この後しばらく、今日に至るまで他分野へのエントロピー概念の輸出が進みます。今日の学問体系、社会体系は、もはやエントロピー概念無しには成立しません。それだけの重要性を持った量であることを、まずは国民の皆様に認識を頂きたいと思います。

さて、本日我々は目玉政策を発表いたします。それは、今年度よりエントロピーGDPに代わる新たな、世界的に通用する経済指標として導入を進めるということであります。従来より経済指標としてのGDP、国民総生産については多くの問題が指摘されていました。専業主婦の家事労働など、社会的に不可欠であるにも関わらず、経済統計に反映しない多くの仕事の従事者による労働が、GDPには勘定されなかったのです。また別の問題もあります。例えば環境破壊は、これは社会的には防止しなければならない課題でありますが、環境破壊、環境汚染を伴う企業活動による経済効果は、正の影響としてGDPに勘定されてしまうのです。しかしながら今日までGDPが、以前はGNPでしたけれども、国際比較の経済指標として使用されてきた背景には、やはりGDPに代わる有力な指標が存在しなかったということが挙げられます。我々は、エントロピーGDPに代替する有力な指標候補として、世界に向けて提出いたします。エントロピーはしばしば、「乱雑さ」の指標であると表現されます。また、このことから、いわゆる「宇宙の熱的死」という考えが広く支持されてきたという経緯もあります。しかし、我が党のワーキンググループの特別顧問でもあられます日立製作所の矢野フェローも仰られているように、エントロピーは「自由さ」の尺度であるという考えを、普及させていく必要があると思います。国民のエントロピー増大、つまり国民一人一人が豊かな自由を実現できる多様な社会、これが我が党の理念でもあり、実行してゆくべきエントロピー政策の理念でもあると、我々は考えています。

そのようなエントロピー量を、社会の状態を反映する量として定量的にモニタリングするためには、いくつかの障害があります。まず一つの大きな問題は、国民生活を反映するエントロピーのデータを大規模に収集することです。このことに関しましては、以前、トリリオンセンサーという考えが大きく話題となったことがありますが、最も重要なのは人間のデータであります。まずは国民一人一人にウェアラブルセンサを配布することで、国民の状態を大規模に定量的に把握するためのデータを収集できると考えております。ここで問題となるのは、やはりプライバシーの問題です。もちろんウェアラブルセンサの着用は強制ではありませんし、先の衆院選でも多くの国民のみなさまに納得をして頂いているという我々の判断でもあります。しかしながら、一人でも多くの国民にデータ収集に協力して頂くことで、デジタル庁とも連携を図りながら、収集した膨大なデータを解析し、国民社会の改善に繋がるフィードバックを回すことができると考えています。また、このようなシステムが構築され、収集されたデータから意味が見出せるようになると、将来的には、リアルタイムで把握される民意から、より高度な政治判断を行うことができるようになるとも考えています。そのような意味でも、国民のみなさまにご協力を頂きたいと思います。我が国は自由と平和を希求する民主主義国家として、国民による正当な選挙によって選ばれた代表者によって政治を行うことを憲法で規定しています。権威主義全体主義といった体制ではなく、民主主義の国家によりこのようなシステムを構築することができると世界に示すことができれば、それは世界の発展にも大きく寄与するのではないかと、我々は考えています。いずれにしましても、このようなエントロピー政策を実現推進するための行政組織として、エントロピー省を設立いたしました。この政策は、政府だけで実現するものではありません。国民のみなさま一人一人の協力によって、よりよい社会が目に見えて実現されてゆく様子を見ることができるのを、我々といたしましても、楽しみにしております。それでは手短ではありますが、私の方からの説明は以上とさせて頂きます。

それではこれから質疑応答の時間といたします。まずは幹事社の方から大臣に質問をお願いします。質問は一人ひとつまで、必ず所属と氏名を述べてから質問をお願いします。それではよろしくお願いします。

 

参考文献:

『熱学思想の史的展開<3> 熱とエントロピー』(山本義隆ちくま学芸文庫、2009)

『IoTとは何か 技術革新から社会革新へ』(坂村健角川学芸出版、2016)

『データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・社会・組織の法則』(矢野和男、草思社文庫、2018)

たまに2時に思う

自分は多分かなり多くのことを抑圧していて、時々部分的にそれが漏れてきて、しんどい思いをする。メルトダウンした原子炉のフタをわざと開ける人がいないように、僕もまたその抑圧の具体的内容を取り出してみることはしない。しかし大事なことは、そういう抑圧があっても、自分にはそういう感情があってそれを抑圧しているということを理解できると、気付くと、悟ると、完全ではないけれど気分が楽になるということだ。根本の原因は解決されていないし、またそれが解決可能な単純な、線形な、問題だとも思えない。時間は少し問題を徐々に小さくするかもしれない。対症療法的というか、僕は繰り返しこういうことをしていて、それは問題が根本的には解決していないということの表れでもあるかもしれない。問題というのは、具体的なイベントのことではない。心のあり方のことだ。繰り返し理解して、そしてまた忘れて、そしてまた理解して、楽になる。丑三つ時の心の問題は、朝になると消え去っていて、それを思い出すことはできない。繰り返し同じことをすると、前もこの道を通ったなと思ったりする。それが重要なことではないし、もう思い出せないけれど確かに分かったその瞬間が、苦しさを一時的に感じさせなくしてきたのは僕にとって事実なのだ。

人はなぜお酒を飲むのか

表紙の女の子がかわいい哲学の本『読まずに死ねない哲学名著50冊』(平原卓、フォレスト出版)のアリストテレスのページを読んでいて、動いている何かの原因の原因の原因の...という風に原因を遡っていくと、最終的に「不動の動因」というこの世の全ての動きの根本原因であるところの神みたいなやつがあると考えられるよね、みたいなことが書いてあった。ニュートン運動方程式は、この世の根本原因ではない。それは、たとえば空気抵抗がある時は成り立たないよねみたいな話ではなく、空気抵抗とかそういうものが全て無視できるという理想的な場を考えるという話であって、空気抵抗を考えるにしても例えば速度に比例する抵抗力が物体に働くとか、そういう条件を付け加えることは可能である。しかし僕がしたいのはそういう話ではなく、たとえば原子レベルのミクロなことを扱うときにはもはやニュートン運動方程式は明らかに成り立たない。そこは量子力学が支配している世界である。ニュートン力学では量子力学の効果は想定されていない。つまり、ミクロな方にニュートン力学を持って行って不成立を見るというだけでなく、マクロな現象を考えている時も、量子力学のことは考えていないということである。現実にはマクロとミクロとの間に境界がある訳ではなく、本来は連続的であって、どんなマクロな現象に対しても、ミクロの効果を全く無視して良い訳では無い。それはあくまで効果が限りなく小さいので、近似的に無視できるというだけである。つまり、ニュートン運動方程式は現実に対する近似解に過ぎない。僕は統一理論の話をしている。しかし、その統一理論は、厳密解なのか。ここでいう厳密解とは、不動の根本原因のことである。かつて一瞬だけニュートン力学とマクスウェル電磁気学で全て説明できると考えられていた時代、それらは万物の統一理論だった可能性がある。そして今度、本当に万物の統一理論と思われるものを手にしたとき、それは本当の万物の統一理論ではない可能性がある。僕がしたいのはこういう話では無かったかもしれない。もっと経験論的な懐疑だったかもしれない。でもそれを思い出せなくなりつつあり、言葉を紡ぎ出せなくなっている。

私たちはなぜ、お酒を飲むのだろうか。人間には欲求や欲望というものがある。食欲や、性欲や、睡眠欲といったもの。これらは本能に根差した本源的な欲望である。欲望は、時間経過で発生する。そして、満たされない状態が続くと、大きくなり続ける。欲望が満たされると、それは一時的にせよ、小さなものになり、幸福や快感を感じる。欲望は、人間が制御できないものだ。もちろん人間には理性があるので、破滅を迎えることはないが、ここで言う制御できないとは、欲望が発生し大きくなっていくという事実の方に向けられている。それを満たすことで解消することはできるが、人間が生きている以上このサイクルを止めることは、出家でもしない限り?基本的にはできない。お酒を飲むと、人間は段々と自分を制御できなくなっていく。量が多ければ、破滅を迎えるが、そうでなくても、たとえば手先が上手く操作できなくなるとか、会話の内容が上手く頭に入ってこないとか、自分の考えがまとまらなくなるとか、そういった自分の制御の出来なさがある。お酒はそして、時間経過で解消される。人間の体の作用によって化学的に分解される。欲望は時間経過で大きくなり、そこには自分の制御できなさがある。そして満たされると幸福や快感を覚える。お酒はそうした、制御のできなさとその解消による快感という、本能による欲求の作用に近いものを人為的に(擬似的に?)作り出すという効果があるのではないだろうか。だから人はお酒を飲む。満たされない本当の欲求の話は置いておいて、代理的に欲求が満たされる快感を味わうために。そこでは単にお酒を飲むことや会話によって満足しているのではなく、「制御のできなさ」の解消による満足が確かにあるのではないか。